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第90話『平穏』
「「丸竹夷二押御池
姉三六角蛸錦
四綾仏高松万五条
雪駄ちゃらちゃら魚の棚
六条三哲通りすぎ
七条越えれば八九条
十条東寺でとどめさすぅ♪」」
木乃香と刹那の鈴の様な歌声に応える様に、強い風が木々を揺らす。
「それって、手鞠歌だっけ」
イルゼが聞くと、木乃香が振り向いた。
後ろ向きに歩きながら笑みを浮べる。
「この歌なぁ、京都の町を謳っとるんよぉ」
「京都の町?」
イルゼが首を傾げると、刹那が胸を張って応えた。
「丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条、雪駄屋町、
鍵屋町、銭屋町、魚棚、六条、三哲、七条、八条、九条、十条、東寺の順番に京都の地名や名所の名前を謳ってるんよ」
噛まずに言えた、と気分を良くした刹那に、イルゼは「えっと…、えびすにたけやに…あれ?」と、混乱していた。
ちなみに、今日は詠春と木乃香、刹那、イルゼの四人だけでお出掛けだ。
さすがに麻耶と妙、詠春の三人全員が外出するのは拙いからだった。
詠春は錆浅葱色の着物を着ている。
イルゼは半そでのシャツに、黒の長ズボンだ。
木乃香と刹那はそれぞれ山吹色と茜色の着物を着ている。
最初、麻耶がイルゼの分も用意したのだが、動き難いからイルゼが嫌がったのだ。
そして、イルゼは木乃香と刹那に歌を教えてもらいながら町に向かった。
詠春はそんな三人を微笑ましげに見ている。
陽は丁度真上に来た時、イルゼ達は町に辿り着いた。
遠目に松尾大社が見える。
その影が徐々に近づき、通り過ぎると、四人は桂川を渡って四条通りに入った。
「映画村ってどんな所だろうな」
イルゼはワクワクする気持ちが抑えきれずに目を輝かせている。
木乃香と刹那もあれこれと想像を膨らませている。
「ほら、そこの梅宮神社の角を曲がってすぐだよ」
詠春が指差した先に我先にとイルゼは駆け出した。
「よっしゃぁ!一番だぁ!」
「あっ!待ちやイルゼ!」
「ずるい!」
そんなイルゼに不満を言いながら木乃香と刹那も駆け出した。
「コラコラ!走ったら危ないぞ。自動車が突然来るかも知れないんだ!ゆっくり歩きなさい!」
詠春が怒った声でそう言うと、イルゼ達はションボリして「ごめんなさい…」と謝った。
キチンと反省した子供達に、詠春はやんわりと微笑みかけた。
「分かればいいんだよ。さ、行こう」
そう言って、詠春が先導し始めた。
映画村に着くと、夏休みだからか凄い人だかりが出来ていた。
「人が一杯やね!」
木乃香はあまりの人の多さに目をパチクリとさせて言った。
「うん。うち、こんなに一杯の人見たん初めてや」
刹那は唖然としながら言った。
「それじゃあ、チケットを買ってくるから。イルゼ、二人を頼むよ」
詠春はそう言うと、イルゼが「おうよ!」と応えるのを聞くと、人込みの中に入って行った。
パンフレットを見るイルゼ達。
「えっと、忍者体験に、コスプレ体験、お城探検ツアー、水戸黄門の生撮影か、一杯あるなぁ」
イルゼが言うと、木乃香と刹那もパンフレットを隅々まで見た。
「すっごく面白そうやね!」
木乃香が言うと、刹那も「うん!」と笑顔で頷いた。
「最初どこ行く?俺はこの忍者体験がいいなぁ」
イルゼが提案すると、刹那が難色を示した。
「せやけど、危ないんとちゃう?このちゃんが怪我でもしたら…」
刹那の言葉に、イルゼはニカッと笑った。
「俺が護るから大丈夫だよ。木乃香も、刹那もさ」
イルゼが当然の様に言った言葉に、刹那は目を丸くした。
だが、ニカッと笑い返した。
「せやったね。でも、うちもこのちゃんを護るんや!イルゼも、護るんはこのちゃんだけでええ。うちは護られる側やのうて、護る側に居たいんや!」
刹那の言葉に、木乃香が頬を膨らませた。
「うちかて、せっちゃんとイルゼを護れるくらい強くなるんで?絶対や!護られるだけやない。うちは、二人と一緒に並んでたいんや!」
「うう…ごめんこのちゃん」
「ニシシシ、でも、俺はもっと強くなるぞ!誰にも負けないくらい強くなって!二人も、ばあちゃんも詠春も皆護れるくらい強くなるんだ」
刹那が肩を落として謝ると、イルゼは満面の笑みを浮べて言い切った。
「そうだぜ。目指すならただ強いだけじゃ足りないぜ。目指すは最強だぜ!」
右手を大きく振りかぶって叫ぶイルゼに、何人かの通行人が顔を向けたが、三人の子供の微笑ましい姿に、皆が微笑を漏らした。
そして、詠春が戻ってくると、四人は映画村に入った。
「どうや?イルゼ!!」
木乃香は可愛い町娘衣装を着ている。
すこし不思議な衣装で、紺色の着物で、ミニスカートみたいになっている。
帯は後でリボンみたいになっていて、余った部分が地面につきそうなほど長い。
ちなみに、イルゼの格好は濃い紫の忍者服だ。
覆面までしているので、殆ど誰か分からない状態だ。
背中に偽の忍者刀を背負って、詠春のカメラにポーズを取り続けていた。
ちなみに、これは詠春がエヴァンジェリンに命じられた事で、昨夜遅くに二人の事が心配になったエヴァンジェリンが、電話してきたのだ。
そして、詠春に思い出を一つ残らず写真に取って来い!!という命令が下された。
――そう言えば、もう一人の娘に人形作りを教えていると言ってたけど、どんな子なのだろうか…。
詠春は、昨夜の電話で話している時に時々出たフェイという少女に少し会って見たかった。
二人の、特にイルゼと仲が良いという話だ。
もしかしたら、将来木乃香のライバルになるかもしれない。
そう考えると、ちょっと複雑な思いだったりする。
木乃香が出てきて、ヒラリと一回転しながら言うと、イルゼはニッと笑みを浮べた。
「似合ってるぜ、木乃香」
イルゼが褒めると、木乃香はエヘと笑みを浮べた。
「イルゼもカッコいいで」
「ヘヘ、刹那は?」
イルゼハ嬉しそうにハニカムと、聞いた。
「せっちゃんももうすぐ来るえ」
木乃香がそう言うと、ちょうどコスプレ屋から刹那が出てきた。
刹那の格好は、まるで大河ドラマのお姫様の様に綺麗な着物で、髪もちゃんと結われていた。
「うう…、やっぱりこのちゃんの方が似合うよぉ」
「せやかてせっちゃん可愛いで?なぁ、イルゼ」
「おう、可愛いぞ刹那」
「可愛いでせっちゃん」
「可愛いぞ刹那」
「可愛いでせっちゃん」
「可愛いぞ刹那」
二人で左右から可愛い可愛いと言い続けると、刹那は混乱した様に「可愛い…うちが可愛い…」と呟きながらフラフラと歩き出した。
それを、木乃香とイルゼは笑みを浮べて眺めている。
「なんか楽しいな」
「イルゼって結構虐めっ子やからねぇ」
「…………木乃香の方が虐めっ子だ」
そう言うと、唇を尖らせてイルゼは刹那を追った。
「な!?うち、虐めっ子やないでぇ!待ってやイルゼ!」
木乃香は憤慨しながらイルゼを追いかける。
その様子を見てた詠春は、僅かに冷や汗を流していた。
「エヴァンジェリンの影響なのかな…」
少しだけ、二人の将来に不安を覚えてしまった瞬間だった…。
「どりゃあああ!!!」
イルゼは叫びながら手裏剣を的に思いっきり投げつけた。
イルゼ達が居るのは忍者体験コーナーだ。
忍者のコスプレをしているイルゼの姿に、たくさんの人が見物していた。
その理由の一つに…。
「イルゼ…、派手やねぇ…」
刹那は半ば呆れた様に呟いた。
「せやねぇ…、一発も当たってへんのにねぇ…」
木乃香も苦笑いを浮べていた。
「何で当たんないんだあああ!?」
どんなに力を篭めてもカーブして的に全く当たらず、イルゼは涙目になっていた。
「おい、詠春!!当たんないじゃん!!」
イルゼが怒鳴ると、詠春は苦笑していた。
子供の癇癪を聞くなど初めてなものだから、逆に面白がっているのだ。
「ほら、こうやって軽く投げるんだよ」
ニコニコ微笑みながら一気に十枚の手裏剣を同時に投げて十枚の的の真ん中にそれぞれ命中させる詠春。
これが、注目される理由の一つだったりする。
「お父様…ノリノリやなぁ」
「楽しそうやねぇ」
「ほらほら、そんなに力を入れないで、こうだよ。こう!」
「だから分かんないっつうの!!」
イルゼと詠春が手裏剣を投げるのを、木乃香と刹那は後のベンチでコーラを飲みながら見物していた。
「これ、うまいぜ」
ペロペロと紫芋アイスを舐めている木乃香に、オレンジアイスを舐めているイルゼが言った。
「こっちもおいしいで」
木乃香も満面な笑みで返した。
すると、刹那と詠春がやって来た。
「えへへ、うちはマロンアイスや」
刹那はニコニコしながら駆け足で刹那はアイスを自慢している。
その後で、詠春もバニアアイスを食べながらニコニコしている。
先にアイスを貰ったイルゼと木乃香は先に水戸黄門の生撮影を見やすい場所を見つけていたのだ。
すると、刹那が誰かの足に自分の足を引っ掛けてしまった。
「うわあああん、うちのアイシュクリィムがああ!」
転んでしまった拍子に、刹那のアイスは放物線を描いて地面に落ちてしまった。
折角詠春が買ってくれたアイスクリームが地面に落ちて、通行人の誰かに踏まれ、ドロドロになってしって悲しくなり、泣き叫んだ。
「せっちゃん!?」
「刹那!?」
木乃香とイルゼは刹那の泣き声に慌てて、場所を空けると、刹那に駆け出した。
「どうしたんだよ刹那!」
人を掻き分けて近寄ると、イルゼが聞いた。
「アイズ…ア゛イ゛ズグリィム落ぢちゃったぁぁ」
見ると、刹那は転んだ時に切ったのか、着物の膝の部分から血が滲んでいた。
膝の痛みもあったのだろう。
着物の裾で顔を覆って肩を震わせている。
「あ…、う……」
泣いている刹那、落ちているアイス、それから自分の持っているアイスを見比べて、イルゼは一瞬だけ迷った。
そして…。
「刹那、俺のやる!」
「ふえ…?」
「あ!えっと…、うちのも!」
遅れてやって来た木乃香は、イルゼが刹那に自分のアイスを渡そうとしているのを見て、自分も習った。
「立てるか?」
イルゼが心配そうにしながら刹那に肩を貸した。
「う…」
傷口が着物に擦れたのだろう。
刹那は苦痛に小さく呻いた。
「せっちゃん!」
木乃香が声を掛けると、刹那はハッとした様に眼を見開くと、慌ててイルゼから離れた。
「イッ―!…だ…いじょうぶ。もう、大丈夫だよ。ごめんね、イルゼ、このちゃん」
刹那は一瞬だけ涙目になるが、何とか堪えた。
「いいからさ、どっかで休もうぜ」
イルゼが言うと、木乃香が「あっ!」と声を上げた。
「あそこのお城探検コーナーのとこ!椅子があるで!」
木乃香が指差すと、イルゼは「よぉし!」と掛け声を掛けると、刹那の膝下と背中に腕を入れて抱き抱えた。
「おんぶじゃ、着物に傷口擦れちゃうからな」
そう言うと、木乃香と刹那を抱えたイルゼはお城探検コーナーの休憩場所に向かった。
本当は、アイスを新しく買って上げるつもりだった詠春は、イルゼと木乃香の行動に少しだけ喜びを得た。
友達をちゃんと思えている。
優しいままで成長してくれた二人に、詠春は自然と微笑んでいた。
詠春は周囲に気付かれない様に、式神を放った。
『前鬼、木乃香達を少し見ていなさい。私は、刹那君の新しいアイスを買ってくる』
詠春が言うと、一般人には不可視の巨大な金色の鳥だった。
これは、詠春の前鬼だ。
前に出した五属霊は、イルゼの腕試しに詠春が作り出した偽者だったが、これは本物だ。
強力な力があり、一般人には見えない様にしてある。
ある種の使い魔の様な存在で、詠春の高速飛行手段でもあったりする。
前鬼はコクンと頷くと、イルゼ達を追いかけた。
詠春はその間に三人分のアイスを買いに行った。
多分、刹那を慰めてる内に溶けちゃってるだろうと思ったからだ。
自分のアイスはもう食べ終わっている。
木乃香は刹那の着物の下から手を入れて、膝口に手を翳していた。
小声で、いつも持っている符を使った。
「おんころころ、せんだり、まとうぎ、そわか」
すると、薬師如来の除邪病御秘符が光を放ち、一瞬で刹那の傷が癒えた。
着物が厚いので、符の開放によって発生した魔力光は周囲には見えなかった。
「これで…大丈夫やと思うんやけど…」
この符は、エヴァンジェリンが用意した物だ。
木乃香に追々陰陽術も教えられるようにと、勉強中に作った物で、数十回は使えるだけの強度を持った術式が書き込まれているのだ。
態々信じても居ない神にお祈りするのは変な気分だったが、真言を唱えながら、特殊な霊薬を筆に馴染ませて、何度も何度もなぞる。
そして、書きあがった符に、指に気を纏わせ、馴染むまで何度もなぞり続ける。
そして、薬師如来の降臨の魔法陣を描く。
その上に符を置き、薬師如来を降臨させる儀式をするのだ。
召喚、と言っても、それは力の一部を借りるだけだ。
魔力を代償に、薬師如来の祝福を受ける。
そうして出来たのが、今木乃香が使った符だ。
傷が癒えて、刹那は泣いた事が恥しくなり、モジモジしながら「ありがと…このちゃん」と俯きながら言った。
「ええんよ。それより、本当に大丈夫?」
「うん…ごめんね」
刹那が頭を下げると、木乃香はニコッと笑った。
「大丈夫やから、ね。一緒にアイスクリーム食べよ、せっちゃん」
「ほら、って…あっちゃ…アイス溶けちゃったか…」
頬をポリポリ掻きながらイルゼは木乃香から預かったアイスと、自分のアイスが殆ど溶けてしまっているのに、残念そうに言った。
すると、刹那は再び瞳に涙を溢れさせた。
「ごめ…ごめんなさい…」
刹那が愚図りながら謝ると、イルゼは慌てた。
自分のせいで泣かせてしまったからだ
「わわわ、泣かないでくれ刹那!俺が悪かった!ごめんよぉ…」
「せっちゃん、泣かんで」
自分のせいでイルゼと木乃香の分のアイスまで台無しになってしまって、申し訳なさで悲しくなった刹那に、イルゼと木乃香は必死に慰めようとした。
すると、詠春が箱に三つのアイスを差して歩いてきた。
「ほらほら、刹那君。大丈夫だよ。三人分の新しいアイスを買ってきたから、今度はゆっくり食べようね」
新しいアイスを受け取ると、三人共詠春にお礼を言った。
そして、ご機嫌になった三人は、詠春に連れられてお城探検コーナーに入って行った。
水戸黄門の生撮影の場所は、もう人が多過ぎて近くでは見えない状態だったからだ。
「天守閣に立つ男。その名はオレ」
「…………何やっとるん?イルゼ」
若干呆れた様に、木乃香は天守閣で両手を広げているイルゼに突き刺さる。
「いや、天守閣まで来たからさ、せっかくならポーズ取ろうと…景色もいいしさ」
イルゼが言うと、刹那も苦笑している。
三人共、もうさっきの事は無かった様に楽しげだ。
すると、突然イルゼの隣から声がした。
「そうだねぇ、こっからの景色は悪くないよ。お前さん、いい眼してるねぇ」
「そうだろそうだろ!…って、あれ?」
突然隣から声がして、イルゼは顔を向けた。
すると、何時からそこに居たのか、一人の少女が天守閣のイルゼの隣に座っていた。
詠春も目を丸くしている。
そして、木乃香と刹那も驚いて近寄ろうとして、透明の壁にぶつかった。
「あれれ?入れないよ…?」
木乃香が焦ったように言った。
二人は、まだ天守閣の入口だった。
我先に窓に向かってポーズを取るイルゼに苦笑していたのだ。
「お前さん、名前は何て言うんだい?」
少女はイルゼに視線だけを向けて聞いた。
少女は、イルゼより背が高く、丁度エヴァンジェリンと同じくらいの背だった。
民族衣装の様な、何枚モノ布を重ねた様な服に、鎖がジャラジャラとついている。
そして、茶色い髪は、座っているからか、床に広がっている。
目付きが鋭く、一瞬、イルゼは髪色を変えたエヴァンジェリンに見えてしまった。
頭には二本の大き過ぎるくらいの茶色い角の様な髪飾りを着けている。
「イルゼ…イルゼ・ジムロックだ」
「イルゼ…、そうかい。あたしゃぁ、伊吹山のアザミ。お前さん、人は好きかね?」
「……?…別に嫌いじゃないけど…?」
何が言いたいのか分からなかった。
アザミはただ、「そうかい」と微笑むだけだった。
だが、どうしてかその笑顔が、優しく、イルゼは戸惑った。
「人の世は移ろうねぇ…。どうして、こんなに早いんだろうねぇ…」
「なんか、ばあちゃんみたいだな、アンタ」
イルゼは自然とそう言った。
初対面相手に失礼じゃないか?そんな考えは過ぎらなかった。
「ばあちゃんかい?……お前さん、ばあちゃんは好きかえ?」
「好きだぜ。自慢のばあちゃんだ」
イルゼの言葉に、アザミは眼を細めた。
「クッ」
「?」
「クハハハハハハハハハ!!」
「な、なんだよいきなり!?」
突然笑い出したアザミに、イルゼは訳が分からなかった。
すると、アザミは立ち上がった。
「久方ぶりに九尾の仔の臭いを嗅ぎつけてきたら…全く、面白いねぇ」
「な、何なんだよアンタ…?」
いきなりの言葉に、イルゼは困惑した。
すると、アザミは「右手を出しな」と言った。
「ん?」
言われるままにイルゼが右手を出すと、アザミはその手に自分の右手を合わせた。
「お前さん、何時か本当にどうしようも無くなった時が来たら、コレを使いな」
そう言った瞬間、イルゼの右手に激痛が走った。
「イッ――!?」
イルゼが痛みに眼を一瞬だけ閉じると、次の瞬間にアザミの姿は消えていた。
「あれ…?」
イルゼが戸惑っていると、声が響いた。
『時が来れば分かるさ。お前さんが最後の時を迎えればねぇ』
それっきり、アザミの気配は完全に立ち消えてしまった。
そして、突然詠春が焦った声を上げた。
「大丈夫かイルゼ!」
「ヘ?どうしたんだよ詠春」
只事じゃない詠春の様子に、イルゼは面を喰らってしまった。
「どうしたって…」
すると、唖然とした顔をして詠春はイルゼを見た。
「大丈夫なん?イルゼ」
「だから、大丈夫って何が?」
木乃香の言葉にイルゼが首を傾げると、刹那が言った。
「ほんまに…大丈夫なん…?」
その眼は不安が色濃く出ている。
三人の様子があまりにおかしく、さすがにイルゼも訳が分からなくなっていた。
「どうしたんだよ…一体?」
イルゼが首を傾げると、詠春が逆に困惑した様に言った。
「今、いきなり結界が張られたんだよ。それも、私も気付かぬほど一瞬で、本山に張ってある以上の結界が…」
詠春の言葉に、イルゼは目を丸くした。
「はぁ!?」
結界。
それも、総本山の結界の強さは、詠春が昨日説明してくれた。
「どういう事だよ…?アザミが張ったってのか?」
イルゼが聞くと、詠春は眉を顰めた。
「アザミ…?」
「ああ、さっき話してた人だよ。……ばあちゃんに似てた」
「おばあちゃんに!?」
木乃香が驚いた様に叫ぶと、刹那が聞いた。
「その人、アザミ言うん?」
「ああ、伊吹山のアザミって」
「伊吹山だって!?……まさか…」
詠春は驚いた様に眼を見開いて顎に手をやった。
「詠春…?」
イルゼが首を傾げると、詠春は首を振った。
「いや…まさかな。それより、本当に大丈夫なんだね?」
詠春の言葉に、イルゼは「あ、ああ」と頷いた。
すると、詠春は「そうか…」とだけ呟いた。
「……何も無いならいい。さて、それじゃあここから水戸黄門の撮影を観ようか」
詠春が言うと、木乃香と刹那はまだ不安そうにイルゼを見ていたが、イルゼが「平気だって」とニシシと笑うと、三人で窓に向かった。
天守閣には他に人が居なかった。
少し離れていたが、水戸黄門の撮影風景は十分に見えた。
長屋に挟まれた場所で撮影は行われていて、お城側の長屋の屋根に隠れず、しっかりと眺める事が出来た。
黄門様の立ち回りに、三人は熱中していたが、詠春は「ジュースを買ってくるよ」と言って、天守閣から降りた。
そして、ジュースを三つ買うと、立ち止まった。
「一体…」
結界の中に見えた少女。
詠春は眉を顰めた。
――アレがもし、伊吹山に伝承される…いや、そんな筈は無いな…。
馬鹿な考えだと首を振った。
だが、声は聞こえなかったが、少女の頭の二本の角は確かに見えた。
「最後に、イルゼは握手していた様だけど…」
どれだけ考えても、答えは霞の様に掴めなかった。
詠春は大きく溜息を吐くと、頭を掻いた。
「全く…、ナギだったら今の現状をどう言うかな…。いや、彼なら面白がるだけか。本当に…、死んでしまったのか?ナギ…」
目を細めながら、嘗ての盟友に問い掛ける詠春の言葉に答えるのは、外のざわめきだけだった。
それから、瞬く間に一週間が過ぎた。
沢山の寺や寺院を回り、京都の町を遊び尽くした。
そして、その日はイルゼと木乃香が帰る二日前だった。
イルゼ達は、麻耶に連れられて清水寺に来ていた。
金閣寺や、東寺といった、有名な所は全て回り、最後に残ったのがここだったのだ。
ちなみに、明日は義経と弁慶の由来がある場所を回る予定だ。
弁慶記と呼ばれる本を、麻耶と妙が眠る前に毎日読み聞かせてくれて、三人は義経と弁慶由来の地を回るのが楽しみで仕方なかった。
だが、それは同時にお別れ前の最後の一時だとも理解していて、三人は少し寂しく思った。
そして、今、三人と麻耶は清水寺の舞台に居た。
「眺めいいなぁ」
イルゼは木の柵から乗り出して歓声を上げた。
「あ、危ないでぇイルゼ!」
柵の上で歓声を上げるイルゼに刹那が慌てた様に言った。
「イルゼ、みんなの迷惑になるから止めるんや!」
すると、麻耶がイルゼを注意した。
舞台上は、他にも沢山の観光客が居るからだ。
「う、…はぁい」
麻耶に叱られて、イルゼは肩を落としながら降りた。
「せっちゃん、イルゼ、向こうに人が集まってるで」
木乃香が言うと、イルゼと刹那は「どれどれ?」と言いながら木乃香の見ている方向を見た。
すると、何人かの人が、柱の様な物を持ち上げ様と奮闘していた。
「何だあれ?」
イルゼが首を傾げると、麻耶が教えてくれた。
「あれは弁慶の鉄杖と鉄下駄やね。鉄杖は大きい方が96kg、小さい方が17kg、鉄下駄は片方12kgもあるんやで。それぞれに、加護がある言われてるん
や。義経を守り抜いた弁慶に恩義を感じていた鍛冶師が奉納した言われとる」
「ほえぇ」
刹那は挑戦しようと小さい方の鉄杖に向かった。
「お、お嬢ちゃん挑戦かい?」
鉄杖を囲んでいた観光客の一人が言った。
そして、両手で刹那は鉄杖を掴むと、「ふにゅううう」と叫びながら顔を赤くして踏ん張った。
すると…。
「おお!?ちょっと持ち上がってるぞ!?」
17kgもある鉄杖を、刹那は持ち上げていた。
6歳の女の子が持ち上げている様子に、周囲の観光客は驚いているが、それでも小さい方であったから、驚きと一緒に賞賛の声も上がった。
「せっちゃん、凄いで!!」
「やるじゃん!」
木乃香と刹那が褒めると、刹那はゆっくりと鉄杖を下した。
「えへへ」
嬉しそうにハニカムと、刹那は「ありがと」とお礼を言った。
「イルゼなら、大きい方を持ち上げられるんやない?」
刹那が言うと、イルゼは「こっち!?」と、目を丸くした。
そこには、96kgもある大きな鉄杖がある。
「えっと…」
イルゼは「さすがに無理だよ…」と言おうとして木乃香と刹那を見ると、二人は期待に満ちた顔をしていた。
――ッ―!?
イルゼはもう一度、大きな鉄杖を見た。
――デカイ…。
2.6mもあり、イルゼ三人分の大きさがある。
イルゼはもう一度木乃香と刹那を見ると、二人は期待を篭めてイルゼを見ていた。
次に、麻耶を見るとクスクスと笑ってるだけだった。
周囲の人達も、追い詰められているイルゼを微笑ましげに見ている。
――逃げ場無しですか…。
イルゼは大きな鉄杖を見上げた。
清水寺の七不思議に数えられるこの鉄杖。
重さは96kg。
イルゼは両手で握ると、すこし自力で上げようとしたが、全く動かない。
――だよねぇ…。
イルゼは内心で溜息を吐いた。
そして、右手の拳で左手の掌を叩くと、息を吸った。
「おっしゃ!!」
そして、マナを吸収した。
イルゼのマナの吸収は、見た目には変化は全く無い。
ただ、木乃香と麻耶だけが周囲の魔力がイルゼに流れていくのを感じるのだった。
そして、全身にマナをエネルギーに変換して巡らせる。
「オラアアアアアアアアアア!!」
すると、徐々に大きな鉄杖は浮き上がり始めた。
「お、おい!鉄杖が…」
「嘘……」
「あれって何キロだった!?」
「あんなちっちゃな子が!?」
「俺…持ち上がらなかったのに……」
周囲で驚愕の声が響く。
だが、イルゼは更にマナを取り込んだ。
「おりゃあああああ」
そして、掲げる様に持ち上げると、イルゼは一気に下した。
「ハァ…ハァ…、予想外に重かった…」
イルゼは両手が真っ赤になってしまい、フーフーと吹いた。
「凄かったで、イルゼ!」
木乃香は歓声を上げると、刹那も「うんうん」と頷いた。
「ってか、無茶な振りしないでくれよなぁ」
イルゼが不満を言うと、刹那はニコニコしながら「ごめんねぇ」と謝った。
「謝られた気がしねぇ…」
イルゼは刹那に疲れた様な視線を送ると、肩を落とした。
そして、クスクス笑っている麻耶を睨みながら、イルゼ達は唖然としている観光客の間を縫って、下に降りた。
音羽の滝に来ると、麻耶が説明した。
「この滝は、音羽の滝言うて、右から健康、美容、出世言われてるんや。まぁ、観光客には美容と出世が、それぞれ学業と縁結びって言われておますけ
ど、古来『黄金水』『延命水』とよばれ、日本十大名水の筆頭にあげられる有名な水なんや。清水寺の名の由来はこの清らかな清泉が音羽の山中より1 000年以上、涌き続けていることに由来してるんやで」
麻耶の説明を聞いて、イルゼ達は滝の水を飲む列に加わった。
「俺は健康かなぁ」
「うちらは美容の飲んでみよっか、せっちゃん」
イルゼが適当に言っていると、木乃香は両手で頬を包みながらニコニコと刹那に言った。
「う、うん」
刹那も頷いて、順番が来ると、イルゼは右端、木乃香と刹那は真ん中の水を飲んだ。
そして、麻耶も真ん中の水を飲むと、すぐ近くの茶店に向かい、三人はカキ氷を食べた。
「うう…頭痛い…」
イルゼは急いで食べ過ぎて、頭が痛くなってしまった。
「うう…うちもや」
「うちも…」
木乃香も刹那も頭が痛くなってしまった。
「急いで食べるさかい、そうなるんですよ」
麻耶が呆れた様に言った。
「姉ちゃん、なんでカキ氷食べると頭痛くなるんだぁ?」
イルゼが涙目で聞くと、麻耶は自分のカキ氷を食べ終わり、口を開いた。
「色々説はあるんやけど、アイスクリーム頭痛言うんや。三叉神経言う、冷たい!って感じる神経が、冷た過ぎて混乱してしまうんや。それで、冷たいが痛
いに間違って伝わってしまうんよ。痛い場所も、口じゃなくて頭だったり、場所も間違って脳に届いてまうんや」
麻耶が言うと、イルゼは頭痛が治まったのか、「へぇ」と言いながら、再びカキ氷を食べて頭を痛くした。
そして、帰路に着いた頃には夕方になっていた。
もうすぐ、総本山の結界内に入る近くだ。
ゆっくり歩きながらイルゼ達は途中で買った八橋をたべている。
「やっぱ、生の方がおいしいな」
「せやね、焼いたのもおいしいんやけど、生の方が柔らかくて凄くおいしいね」
イルゼの言葉に木乃香も頷いた。
「…………」
だが、刹那は何も応えずに俯いていた。
「どうしたん?せっちゃん…」
木乃香が気遣う様に刹那に近寄ると、刹那は口を一文字に結んでいた。
「………明後日だな」
イルゼの言葉に、木乃香は「あ…」と俯いた。
明後日、それはイルゼと木乃香が帰る日だった。
明日帰らないと、学校が始まってしまう。
イルゼも俯いてしまった。
「三人共……」
麻耶は何て言えば分からなかった。
そして、四人共、明後日のお別れが近づいた事が悲しくなり…。
…………誰一人気付かなかった。
上空1000mの敵に――。
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