第89話『京都到着』


京都の町、そこからすこし離れた場所に関西呪術協会の総本山は位置している。
麻耶の車が、関西呪術協会に到着したのは、20日のお昼過ぎだった。
到着したイルゼ達を歓迎したのは、入口の門を潜った直後に、左右に並ぶ大勢の巫女達だった。

「「おかえりなさいませ、お嬢様!!」」

出迎えた巫女達は口を揃えて木乃香の帰還を歓迎した。
だが、イルゼの存在には触れなかった。
その事に、イルゼも木乃香も気が付いたが、あえて何も言わなかった。
木乃香は、エヴァンジェリンに魔法使いと呪術師達の間のイザコザがある事を聞いているし、異端を嫌う人間性を聞かされていた。
それに対して一々怒っているときりが無いのだとは、エヴァンジェリンの口癖に近かった。
吸血鬼として、何度と無く命を狙われ続けたエヴァンジェリンの言葉は重く、木乃香は不快に思いながら、それを表に出すことは無かった。
勿論、イルゼが腹を立てるのであれば、自分も怒りを顕にしただろうが、イルゼが怒っていない以上、自分が怒るのは筋違いだと理解しているのだ。
そして、イルゼの方はどうでもいい、それが答えだった。
本当に興味が無いからこそ、不快に思う筈もないのである。
そして、お辞儀をする巫女達の合間を抜けて、イルゼと木乃香、麻耶の三人は屋敷の玄関を潜った。
中は完全和式で、途轍もなく広い。
だが、久しぶりとは言え、木乃香とイルゼにとっては我が家だ。

「長と刹那は大広間でお待ちどす」

との麻耶の言葉に従い、二人は真っ直ぐに大広間を目指した。
途中で、慌しく駆け回る巫女や剣士、術師達が頭を下げるのを、むず痒く感じながら、二人は大広間に到着した。
中に入ると、そこには紅い袴と、白い胴着を着た刹那が、顔を輝かせて木乃香とイルゼに駆け寄った。

「このちゃん!!イルゼ!!おかえり!!」

刹那の言葉に、漸く木乃香とイルゼは本当に嬉しそうに笑顔を作り、刹那に声を掛けた。

「「ただいま!!」」

二人が刹那に近寄り、木乃香は刹那を抱き締め、イルゼは右手を上げた。
再会を喜び、刹那と木乃香は涙を流した。
だが、イルゼは泣かなかった。
だが、鼻を啜り唇を真っ直ぐに結んでいるのが、涙を堪えているのだと、誰の目にも明らかだった。
そして、大広間の上座に座っていた詠春が口を開いた。

「おかえりなさい。二人共、よく戻ったね」

ニッコリと微笑みながら、詠春は立ち上がると、二人に近寄って二人の頭を撫でた。

「久しぶりだね。二人共、少し背が伸びた様だ」

詠春は二人の成長を喜ぶと、手を叩いた。

「さて、宴だ!」

詠春の号令に、次々に障子が開き、そこから膳を持った巫女達が次々に大広間に入って来た。

「さぁ、三人とも。一緒に座ろうじゃないか」

詠春の言葉に、三人は頷くと、巫女が持ってきた膳の前に敷かれた座布団に、それぞれ座った。
そして始まった宴はあまりイルゼと木乃香には愉快とは言えなかった。
食事は美味いが、エヴァンジェリンの作ったご飯の方が良かったな…、と二人は胸中で呟いた。
もし、
エヴァンジェリンと詠春、麻耶、妙、刹那と一緒に食卓を囲み、エヴァンジェリンの作った料理を七人で食べたなら、それは素晴らしい宴になっただろう
と、二人は確信を持って言えた。
宴は、膳が数分置きに入れ替えられ、大広間で中心を囲む膳の列の中心で、芸を披露し、舞を踊り、歌を謳うのだった。
神鳴流の剣舞や、巫女の舞は見事であったが、イルゼも木乃香も眠くなりそうだった。
足も痺れ、いい加減にウンザリしていると、漸く終わったかと思えば、既に夕方になり、今度は夕食の宴が始まり、ほとほとウンザリしてしまった。
夕食の宴が終わった頃には、もう夜の八時で、結局お昼からずっと座りっ放しで、修行で慣れているイルゼも足が痺れて動けなくなってしまった。

「なぁ、詠春。まさか、俺達が居る間ずっとこんな馬鹿みたいな食事じゃないよな…?」

恐る恐るといった感じに、イルゼはとんでもなく無礼な事を言うが、詠春は気にした風もなく首を振った。

「今日だけだよ。二人の帰還を皆が祝いたがってね。いや、すまなかったね」

詠春が頭を下げたが、木乃香はジトッとした目で詠春を睨んだ。
娘の視線に、詠春は驚愕した。

「二人って、どう考えてもイルゼの事嫌がってへんかった?うち、ほんまにウンザリしたんやで?」

只でさえ苛立つ視線や陰口に加え、何時間にも及ぶ宴で、木乃香は機嫌が頗る悪くなっていた。
イルゼ以上にエヴァンジェリンと一緒に居る木乃香は、どこかエヴァンジェリンに似てきた気がすると、イルゼは思った。
そして、木乃香の完全な皮肉に、詠春は冷や汗を掻いた。
ここに居た頃は、世間知らずな面もあったが、どこまでも心優しい大和撫子だった木乃香が皮肉を言ったのが信じられなかったのだ。
だが、言ってる事は尤もだったので、詠春は何も言い返せなかった。
そして、木乃香の鋭い目付きに、刹那はうろたえていたが、木乃香は小さく溜息を吐くと刹那に言った。

「せやけど、せっちゃんに会えてほんまに嬉しいで。折角、一緒に遊べるって思うて楽しみにしとったんや。せやのに…」

それが、木乃香の苛立ちの原因の要因の一つでもあった。
刹那とすぐにでも遊びたいのに、宴が長引いて遊べなかったのがつまらなかったのだ。
そして、それはイルゼにしてもそうだった。

「そうだぜ。あんなつまんねえの、八時間だぜ?何の拷問だよ」

イルゼの不平に、詠春は苦笑いを浮べるしかなかった。
どう考えても柄が悪くなって帰って来た。
それが、エヴァンジェリンの影響なのかは判断に困ったが、少しだけ詠春はエヴァンジェリンを恨んだ。
そして、イルゼは刹那に言った。

「でさ、刹那は修行どうなんだ?強くなったか?」

イルゼが聞くと、刹那はよくぞ聞いてくれました!と言う様に胸を逸らした。

「うち、鶴子師範と妙はんと麻耶はんに、素子姉様と一緒に修行をつけてもろうたんよ。毎日、厳しい修行やけど、才能があるう言うて、皆褒めてくれるん
よ」

刹那の言葉に、イルゼと木乃香は感心した様に歓声を上げた。
刹那の話では、刹那の修行は、常に素子と一緒に受けているそうだ。
妙と麻耶、もしくは鶴子、時には詠春に修行をつけてもらい、他の人と修行をする機会は殆ど無かった。
それは、刹那を迫害意識を持つ者に近寄せたくないと言う、師匠達の共通の見解からだった。
13歳の素子と、6歳の刹那では、修行内容は大きく違うが、お互いに励まし合う事で、結果は目に見えて良くなった。
実力に開きはあるが、成長速度という面で、二人は正しくライバルなのだ。
素子は、刹那の前でかっこ悪い所を見せられないと言う意地を持ち、刹那は素子に追い付こうと必死になったのだ。
修行内容は、毎日型を繰り返し続ける事。
覚えるべき『技の型』を、何度も繰り返すのだ。
時には、師匠に当てられこそしないものの、目の前で受けさせられ、恐怖と共に記憶させられ、それを忘れない内に反復する。
そして、弟子同士で、素子の方は気を使わず、刹那は気を全力で使い、剣術だけで競い合うのだ。
奥義や技は両者使わずに、身体能力の強化を刹那だけがして技術を磨くのだ。
寝て起きて勉強は麻耶と妙が教えている。
学校には行っていないらしい。
イルゼと木乃香は驚いて抗議を詠春にしたが、こればかりは神鳴流剣士の仕来りでもあったのだ。
『一人前になるまでは、世に出る事を禁じる』
神鳴流の技術は門外不出であり、未熟者が敵の手に渡る可能性を良しとしない仕来りなのだ。
そして、刹那の修行の話は、それから眠るまで続いた。
素子は、現在も修行場で鶴子に扱かれているらしいが、数日中には顔を出すとの事らしい。
そうして、京都での一日目は静かに幕を閉じた。




翌日、八月二十一日。
最初に眼を覚ましたのはイルゼだった。
眼を覚ましたイルゼが眠っていたのは、麻帆良に来る前に三人で過ごしていた部屋だった。
静かな畳の香りが鼻腔を擽る広々とした一室でに、障子の外から朝の陽の光が零れてくる。
イルゼは起き上がると、欠伸をして障子を開いた。
天は高く、青空が広がっていた。
イルゼが障子を開き、外の風が吹き込んでくると、木乃香と刹那も眼を覚ました。
そして、三人で廊下に出ると、詠春の部屋に向かった。
朝食が何処かを聞きに向かったのだ。
すると、巫女の一人が三人に近寄って来た。

「お嬢様、ここにいらっしゃったのですか。お食事が用意して御座いますので、どうぞコチラへ」

巫女はそう言うと、後を向いて歩き出した。
イルゼ達は顔を見合わせると、頷いて巫女について行った。
巫女は大きな丸い眼鏡を掛けて腰まで黒い絹糸の如き髪を伸ばした若い女性だった。
そして、巫女に通された部屋に着くと、そこでは詠春が待っていた。
他には、麻耶と妙だけが座っている。

「おはよう、三人とも」

詠春の挨拶に、三人もそれぞれ挨拶を返すと、すでに用意されていた膳の前に座った。
膳に乗っているのは、色取り取りの懐石料理だったが、イルゼと木乃香には味気無く感じた。

「やっっぱり、ばあちゃんの料理のが良いな…」

「せやね…」

イルゼと木乃香の言葉に、刹那が首を傾げた。

「ばあちゃん…?」

「せやよ。おばあちゃん。凄く優しくて、料理が上手で、うちに魔法を教えてくれて、本当は寂しがり屋で、ちょっぴり心配症なうちとイルゼの師匠や」

木乃香が、まるで我が事の様にエヴァンジェリンの事を自慢すると、刹那は興味津々で聞いた。

「どんな人なん?」

刹那の質問に、イルゼが答えた。

「とにかく凄っげえ強いんだ!前に究極体のピエモンとも戦って、その時は凄かったんだぜ!!」

イルゼが熱心に説明しようとするが、刹那にはイメージが湧かなかった。

「なんや、想像使えへん…」

刹那の言葉に、イルゼと木乃香はもどかしそうにすると、詠春が口を開いた。

「どうやら、エヴァンジェリンを師に推薦したのは正解のようだね」

詠春の言葉に、妙は困惑した様に口を開いた。

「何や、想像つかへんなぁ。闇の福音言うたら、魔法関係者には『なまはげ』みたいなもんやろ?」

妙が言うと、麻耶は首を振った。

「実際にちょっとお話したんやけど、全然や。凄く優しゅうて、美人で驚いたで…。ほんま、イルゼとお嬢様の事も大事にしてくだはって、ほんま人の噂なん
て宛にならへんって実感したわ」

麻耶が言うと、詠春は少し驚いた様に口を開いた。

「本当かい?私が知る彼女は、悪い人間では無いとは確信していたが…驚いたな」

詠春の言葉に、木乃香とイルゼは不満を言った。

「おばあちゃんは優しいで!毎日ご飯作ってくれて、寝る前に絵本を読んでくれて、泣きたくなったらずっと頭を撫でてくれるんや!」

「そうだぜ!俺が暗黒進化した時だって、止めてくれて、ばあちゃんの事、よく知らないのに怖がってる奴の方が、俺は怖いよ…」

木乃香とイルゼの言葉に、詠春は目を細めた。
彼の知るエヴァンジェリンは、少し子供っぽい所があった。
だが、義父からも時折聞き、木乃香とイルゼから送られる手紙で読む限り、本当に母親の様に二人に接してくれているのだと思った。
そして、二人の様子に確信に変わった。
そして、詠春は優しく微笑むと、二人の頭を撫でた。

「分かっているよ。確かに、勝手な思い込みをするのはよく無いね。ほらほら、機嫌を直してくれ。今日は町に出て観光する予定だろ?」

詠春の言葉に、イルゼと木乃香はハッとなった。
実際、木乃香もイルゼも、ここに居た頃は本山から出た事が無く、町には出た事が無かったのだ。
何故なら、木乃香を狙う者から護る為に結界から出さない為だった。
刹那は少し寂しかった。
帰って来た二人は、少し変わった気がしたからだ。
自分も変ったと思う。
だが、イルゼと木乃香は外の世界を見て来たのだと知り、二人がエヴァンジェリンの事を自慢するのが、少しだけ寂しく感じてしまった。
すると、イルゼが口を開いた。

「それよりさ、木乃香にも見せようと思ったんだけど、後で俺の新技を見てくれよ」

イルゼの言葉に、刹那は首を傾げた。

「新技?」

「おうっ!俺の…友達から貰った技だよ」

「友達…?」

イルゼの言葉に、詠春は首を傾げた。

「……うん。友達!」

イルゼはニカッと笑いながら言い切った。
友達と。
そして、語った。
花崎島での出来事を。
それは、木乃香も始めて聞いた話だった。
結局、イルゼの無茶と、遊園地行きが潰れた事がショックで、木乃香も花崎島での出来事は初耳だったのだ。

「んでさ、眠ってる間に言ったんだよ…。『ありがとう……戦うしか出来なかったけど…楽しかった…。十分だよ…。』って…、『――君と…友達になりたか
った…。』ってさ…。ばあちゃんが言ったんだ。俺に出来るのは忘れ無い事だけって、だから、俺は忘れない。話が出来たのだって、夢の中でのあのちょ
っとの間だけだった。だけど、友達になりたいって言ってくれたんだ。だからさ…、俺にとってはワーガルルモンは…友達だ」

イルゼの言葉に、皆が押し黙った。
驚きと切なさを感じて。
驚きは、花崎館の仕掛けや、デジモンとの遭遇、輝夜の事、そして、ワーガルルモンに勝利した事。
切なさは、ワーガルルモンの事。
そして、詠春は言った。

「エヴァンジェリンの言った事、忘れてはいけないよ」

その言葉に、イルゼは当然の様に頷いた。
そして、刹那と木乃香は涙を流していた。

「でも、誰がそんなに酷い事したんやろ…」

木乃香の震える声に、イルゼは首を振った。

「分からない。でも、少なくとも、俺に出来るのは、ワーガルルモンを忘れない事…それだけなんだよ…」

イルゼの言葉に、刹那は悲しげに呟いた。

「うちは…分からへん…」

その言葉に、イルゼは頷いた。

「俺だって、実際は分かってねえよ…。でも、考えるんだ。答えが見つかるまで。ばあちゃんが教えてくれた。考える事、それが何よりも大事な事なんだっ
て…」

イルゼはそう言うと、自分の右手を見て目を細めた。
その様子に、麻耶は戸惑いを感じた。
まるで数ヶ月前とは別人の様に成長したイルゼに。
妙も目を見張っていたが、詠春はエヴァンジェリンへの信頼を更に深めた。
エヴァンジェリンを師に薦めた事は真実正しかったのだと確信した。

「それにしても、イルゼも強くなった様だね」

詠春の言葉に、イルゼは「へへぇん」と得意気に笑った。
すると、木乃香は頬を膨らませた。

「うちだって、おばあちゃんに習って魔法を覚えたんよ!今は原初魔法だけやけど、イルゼが眠ってる間に、第一段階も終了して、たくさん魔法を覚えた
んや。イルゼにも見せてあげるで、うちの魔法」

木乃香が言うと、イルゼと刹那は目を輝かせた。

「うわぁ、うち見たい!このちゃんの魔法!」

「俺も!よく考えたら、木乃香の魔法って見る機会あんまし無かったんだよな。何時も修行は別々だし」

イルゼが言うと、詠春は「そうなのかい?」と聞いた。

「うん、俺と木乃香は修行の方法が違うから、邪魔にならない様にって」

イルゼが言うと、木乃香も頷いた。

「それじゃあ、ちょっと外に出てお披露目会にしようか。刹那君の技も是非見てあげなさい。色々と技も使える様になってきているからね」

詠春の言葉に、刹那は得意げに頷いた。





そして、朝食が終わると、イルゼ達は屋敷の敷地内にある広場に来た。
最初は刹那が技を披露するのだ。

「いきます!」

そう言うと、刹那は練習用の太刀を構えた。
正眼の構えで、刹那は刀身に気を満たした。
スゥーと息を吸うと、呼吸を整え、刹那は細く目を開くと、刃を振るった。

「神鳴流・壱の型、飛閃(ヒセン)!」

刹那の叫びと共に、刹那の刃から白い斬撃が飛んだ。
速度も速く、攻撃力は無いが飛距離はかなりのモノだった。
そして、刹那はそのままの形で叫んだ。

「弐の型、昇閃(ショウセン)!」

そのまま、切り上げる様に再び斬撃を飛ばした。
そして、そのまま切り上げた状態から振り落とす。

「参の型、降閃(コウセン)!」

三つ目の斬撃を飛ばすと、刹那は呼吸を整え、刃を逆さにして持った。
そして、刃に自身の得意属性である雷を纏わせた。

「神鳴流・雷の一、怒雷仙(ドライセン)!」

刹那は叫びながら刃を地面に突き刺した。
すると、少し離れた場所から突き上がる様に雷の刃が出現した。
そして、今度は正眼に構えると、気を刀身に殊更に集中した。

「神鳴流・参壱拾八の型、百鬼弾(ヒャッキダン)!」

刹那が振り落とすと、小さな斬撃が刀身から散った。
その斬撃は、まるで弾丸の如く勢いで飛び、徐々に消滅していった。
そして、少し息を切らせながら、今度は太刀を鞘に納めた。

「神鳴流・百壱拾の型、轟天(ゴウテン)!」

気を鞘ごと集中させると、鞘に入れたまま地面を突いた。
すると、少し離れた地面に衝撃が走り、地面は見事に耕された。

「ハァ…フゥ…、うちが今失敗せんで使えるんはこれくらいや」

刹那が言いながら太刀を腰に差し直すと、木乃香とイルゼは歓声を上げた。

「凄げえよ!!どうやったんだ!?あの雷の!?」

「百鬼弾ってえの?アレ、凄く綺麗やったで!!」

イルゼと木乃香が巻くし立てる様に聞くと、刹那は少し得意になって説明した。
その説明を、木乃香もイルゼもあまり理解出来なかったが、凄い事なのは理解出来た。
そして、三人の様子を、詠春と麻耶、妙は微笑ましげに見つめた。
そして、木乃香のお披露目になった。

「ほな、いくで…」

静かに口を開いた。
空気が静まり返る。
イルゼは、小さく喉を鳴らした。

――この…か?

今の木乃香の格好は着物を着ている。
白地に、菜の花色の綺麗な花の絵が刺繍されている。
そして、小さく吐く吐息に、空気が清涼になっていく感じがした。
取り出したのは、小さな檜の扇子。
それを僅かな動作で微かに揺らすと、ソレは姿を変えた。
隣で、詠春が息を呑むのを感じた。
白銀に輝く、近衛家先代当主である極東最強の魔法使いにして、戦人。
近衛近右衛門が愛用した兵装。

――『神和』

その美麗な見た目に反して、どれほどの物理衝撃を受けても、どれだけの年月を重ねても、どれだけの魔法を浴びても朽ちる事無き『扇』。
敢えて、剣や槍、弓や銃、杖を選ばなかった近右衛門が選び出した武具は、木乃香へと継承された。
正しく、近衛近右衛門の後継者。
木乃香は、神和を構えながら目を細めた。

「殆どは原初魔法を中心に学んできた…、せやけど…。他にもおばあちゃんからは、沢山の魔法、魔術、呪術、を学んできたんや。殆どは座学やけど」

そう呟くと、木乃香は細く息を吸った。

「まずは原初魔法。強力な術は無いし、修得は難しい…せやけど、多種多様な術数の存在する魔法体系の一つ。…最初は、トリニタス!三位一体!」

神和を誰も居ない虚空に構え、心の中で三種の属性を導く魔力を神和に篭める。
木乃香の魔法の適正は、全属性が通常の魔法使いの得意属性レベルの適正がある。
更に、治癒、守護、召喚の三点は更に高い適正を持っている。
だが、その三点は攻撃や、掻き合せるには向かない。
木乃香が選択した属性は、修行途中の木乃香が出せる最大攻撃力を誇る『水・雷・炎』の混合だ。
神和から三つの入り混じった光が迸り、木乃香の狙った場所で、トリニタスは魔力光から、事象へと変化した。
水属性は水となり、雷属性は雷に、炎属性は炎へと変化する。
魔力への方向付けを精霊の助け無しに行う魔法であり、それ故に、修得難易度が高い体系なのだ。
そして、三つの属性がぶつかり合った瞬間に、空間は破裂した。
凄まじい爆発が起こる。

「な、なんだ!?」

イルゼが目を丸くしていると、詠春と麻耶、妙は信じられない面持ちだった。
刹那も唖然としている。
爆発。
まさにそうだった。
炎が膨れ、巨大な球体を発生させたのだ。

「雷で水を分解すれば、酸素と水素に分けられる。水素は炎で爆発し、それを酸素が増幅させる…。だが、魔力を事象に変換するタイミングに僅かなズ
レがあったら…。それに、あれだけの距離を離して、魔力を事象に変換!?それ以前に…あの魔法は一体!?始動キーも無かったが…無詠唱…では
無いし…」

詠春の言葉の意味は、殆ど分からなかったが、それでもイルゼには詠春が驚く程の事を木乃香が遣って退けたのだと理解した。
そして、木乃香は今度は長い呪文を唱え始めた。

「氷の女神の怒りを知れ、アイスブレイク!」

それは、イルゼも見た事が無かった。
始動キーが無く、だが詠唱を必要とした術。
木乃香の右手の先の神和から水色の光が迸り、一瞬でフットボール程度の大きさの氷塊が発生し、それは地面に落ちると破裂した。
大きな破裂音と共に、地面に広がる様に。
恐らく、的に当たった場合は、当たった敵の全身に氷の刃が突き刺さるのだろう。
それを考えた瞬間、イルゼは背中が冷たくなった。
そして、木乃香は次に別の呪文を詠唱した。

「風よ、敵を切り裂く刃とならん、エアロカッター!」

木乃香の詠唱に応え、神和の先から大きな爆発音と共に、大き目の風の刃が飛んだ。
風の刃は森の木を切り倒して消滅したが、その威力は普通の人間相手に考えた瞬間、恐ろしく感じた。
木乃香は小さく息を吐くと、神和を元の檜の扇に戻した。
そして、イルゼ達の下に戻って来た。

「これが、うちの術やね。他にも幾つかあるねんけど、トリニタス以外は、無詠唱状態で出せるんは、基本呪文だけやし、詠唱を完成させた術は、あの二
つだけなんや」

木乃香の言葉に、イルゼが首を捻った。

「まった、詠唱してたよな…?原初魔法に詠唱はいらないんじゃなかったか?」

イルゼが言うと、詠春は目を見開いた。

「原初魔法…あれがそうなのか…」

「そう言えば、おばあちゃんも原初魔法はあまり知られてへん言うてたなぁ」

木乃香の言葉に、イルゼも「そう言えば…」と思い出した。

「どやった?せっちゃん、うちの魔法」

「このちゃん、詠唱ごっつぅかっこ良かったえ!ほんまに魔法使いって感じやった!」

刹那は興奮した様に言うと、木乃香は困った顔をした。

「ほんまに魔法使いなんやけどね。今は、第一段階が終了して、威力や精度を上げる為に詠唱を作ってるんや」

「詠唱を作ってる…?」

刹那が首を傾げると、イルゼも首を捻った。

「俺も、そこんところ解かんねえんだ」

すると、木乃香は人差し指を立てて口を開いた。
何だか、その姿は授業をする時のエヴァンジェリンそっくりだった。

「ええ?原初魔法言うんは、精霊魔法と違ごうて、魔力を、魔法にする方向付けを自分の力だけでするんや。せやから、精霊魔法みたいに、最初に精霊
への挨拶をする必要が無いんや。簡単な魔法やったら、呪文を知ってる人に聞いて、その呪文の意味を聞いて、想像するんや。それで、杖がその想像
を現実にしてくれる。……せやけど、ようやくうちも自分の中から生まれた魔法が見つかり初めたんや。それを、無詠唱で発動するには、その魔法をもっ
と明確にせなあかん。その明確化が完全に出来るまで、確実に杖に明確さを示す為に詠唱を作ったんや。うちの場合は、氷と闇はおばあちゃんのイメー
ジやから、おばあちゃんの呪文に似た詠唱になってる。他にも、自分の中のイメージを具体化する為の…まぁ、暗示みたいなモノだって、おばあちゃんは
言ってたで」

木乃香の説明を聞き、イルゼと刹那は感心しながら手を叩いた。

「木乃香…凄げえ…」

「このちゃん、先生みたいや…」

二人の賛辞を受け、木乃香はハニカミながら照れて笑みを浮べた。

「ありがと、せっちゃん、イルゼ」

ニコッと笑う木乃香に、「んじゃ、次は俺だな」と言って、イルゼは前に出た。

「んじゃ………いくぜ、ワーガルルモン」

イルゼは目をギンッ!と開くと、左手で右腕の二の腕を掴み、右手に神経を集中させた。

――思い出せ…、感覚を。

右手にエネルギーを集中していく。
だが…。

――これじゃぁ…ダダダダキックの応用だ。

ワーガルルモンのカイザーネイルを思い浮かべる。
紫の閃光。
スッとイルゼは目を閉じた。
本来、無いモノを使うのだ。
必要なのは想像力。
意識を埋没させ、意識的に右腕を異物に変換する。

――イメージする――ワーガルルモンの右腕を。

漆黒の毛皮に白銀の模様。
鋭い鮮血の如く紅い爪。
だが、足りない。
あの時は、寸前まで何度もカイザーネイルを喰らっていた。
故に、イメージする必要すらない程に頭にカイザーネイルが思い浮かんでいた。
常に、放たれる瞬間を待っていた瞬間。
集中力が最大限に引き上げられていた瞬間に目視したカイザーネイル。
否、カイザーネイルそのモノだけでは不完全。
自分の中に登録されたワーガルルモンの必殺技。

――『カイザーネイル』

――思い出せ…思い出せ…思い出せ…思い出せ…思い出せ!!

あれから、既に数週間が経過している。
眠っていたとは言え、鮮明に思い出すには時間が経ち過ぎていた。
だが…。

――俺に出来る事は…覚えている事だけ…、それすら出来ないようじゃ…。

イルゼは歯を噛み締めながら、意識を右腕に集中し続けた。

――ワーガルルモンの肉体…ワーガルルモンの動き…ワーガルルモンの技…ワーガルルモンの呼吸、筋肉移動、腕の振り上げ、全部…全部思い出せ
…。

記憶を検索する――。
あの戦いを。
あの時の思いを。
あの時のカイザーネイルを。

「ハアアアァァァアアア!!」

そして、イルゼは右腕を振り上げた。
右手の五本の爪全てに紫の光が灯っている。
イルゼは大きく息を吸い、雄叫びと共に名を叫び、腕を振り落とした。

「オオオオオオ!!カイザーネイル!!」

紫の五本の閃光は、刃となり凄まじい威力で飛んだ。
風を切る音はゴオゴオと鳴り響き、森の木々を切り裂いた。

――んな!?

イルゼは自身の放ったカイザーネイルの威力に驚愕した。
確か、自分が撃った時のカイザーネイルは、死人を倒せる程度で、イルゼにとっては技のヴァリエーションが増えた程度の認識だった。
だが、今放ったカイザーネイルの一撃は、紛れも無く強力無比の完全体のソレに近かった。
推測した理由は三つ。
一つは、あの時はマナもこれ以上吸収できる体力が無く、全身もボロボロだった。
おまけにマナを吸収し過ぎたからか、何時ダークエヴォリューションしてもおかしくない状態であり、全身も悲鳴を上げていた。
だが、これが二つ目の理由。
今回は体力が万全。
マナも周囲に豊富にある結界内。
そして、三つ目。
今回は、あの時と違って、完全にワーガルルモンを模写した。
イメージの強弱の違い。
それが出たのだと推測する。
技を見た直後とはいえ、ノータイムで発動した前回。
技を見てから時間が経ち過ぎていたが、それでもなお覚えていた戦いを時間を掛けて確認し、ワーガルルモンを模倣した今回。
そのイメージの差と、それに見合ったエネルギーの量が、今のカイザーネイルのパワーなのだろう。
放たれたカイザーネイルは木を数十本以上切り裂いてから彼方に消えた。
完全体の必殺技。
それは強力無比な必殺技となりえた。
だが…。

「出せたはいいけど…時間掛かり過ぎだな…」

実質、数分間も集中していたのだ。
その間、何も言わずに待っていてくれたのは、周りが見物している仲間だからだ。
敵と対面してる時に、何分も集中させてくれる筈も無い。

「こいつは…あんまし使えないな…」

イルゼが呟いていると、呆然としていた刹那が口を開いた。

「なん…やの?今の…凄過ぎる…」

その声は、感嘆とも、怯えともつかなかった。
只管に、驚愕しているのだ。

「あれが…、カイザーネイル…」

木乃香も、あまりの威力に声が出なかった。
イルゼは、カイザーネイルを縦に繰り出した。
そして、木は縦に完全に真っ二つになって切り裂かれている。
もし、横に放っていたら、さらに効果範囲は大きかった筈だ。

「……完全体の技…。あれほどなのか…」

詠春の呟きに、妙と麻耶も声が出なかった。
その恐ろしさは、詠唱無しの部分だ。
イルゼが出すのは時間が掛かった。
だが…。


『完全体はノータイムでアレを連射する』


その上の究極体の恐ろしさも、詠春は近右衛門から聞いていた。
あの、エヴァンジェリンともう一体の究極体とタッグを組んですら倒しきれなかった存在が、今も麻帆良に眠っているという。
詠春は戦慄した。
デジモンという、自分達を越える強さを持った存在に。

――ラカンにも…、連絡を入れる必要がありそうだね…。

詠春は冷や汗をかきながら胸中で呟いた。

「んじゃ、次は木乃香!頼むぜ」

イルゼが木乃香に叫んだ。

「へ?あ、うん!」

すると、木乃香は慌てて懐を探った。
そして、今度は木乃香がデジヴァイスを構えた。

「あれ?このちゃん、それって…」

刹那が呟くと、木乃香は刹那に見せた。
新たなデジヴァイスを。

「アクセル。そう書いてあるんやって」

木乃香が言うと、刹那は首を傾げた。

「書いてある…?」

「せや、ここに書いてある文字が、そう読めるんやって、イルゼが読んでくれたんよ」

木乃香の言葉に、デジヴァイスを覗き込んだ。
以前に見たのとは全く別の形状。
そして、木乃香はイルゼに構えた。

「いくで!」

「おう!」

木乃香の声にイルゼが答えた。
そして、木乃香がデジヴァイスのグリップを握った瞬間、進化が始まった。

『Evolution』

凄まじい閃光が煌く。
何度と無く感じた感覚。

「インプモン進化!」

闇夜の古城で、子悪魔は魔狼へと姿を変える。
光に包まれたイルゼは、見知らぬ古城で、サングルゥモンとして君臨した。

「サングルゥモン!!ウオオオオオオオオオオオオン!!!」

遠吠えを上げながら、サングルゥモンは姿を現した。
高貴なる波動に包まれた紫の魔狼は、詠春たちを見つめる。
圧倒的な存在感が広場を包んだ。
そして、尻尾を揺らせるとイルゼはその鋭い牙を煌かせて刹那に近づいた。

「う…」

ジュルリと舌を舐め上げるイルゼに、刹那はちょっとだけ怖くなり、右腕で体を守るように構えた。
すると、イルゼはニヤリと笑顔になり、更に刹那に近づいた。
刹那は一歩後退した。
一歩近づいた。
一歩後退した。
一歩近づいた。
一歩後退した。
一歩近づいた。
一歩後退した。
一歩近づいた。
一歩後退した。

「どこまで行くねん…」

木乃香が呆れた様に言うと、イルゼがテヘヘと笑った。

「いや、何か楽しくなって」

イルゼはそう言うと、刹那に顔を向けた。

「あら?」

すると、刹那は涙目でイルゼを睨みつけていた。

「えっと…」

「抜刀!」

イルゼが冷や汗を流しながら首を傾げると、刹那は太刀を抜いた。

「何…してるんだ?」

イルゼが聞くと、刹那はニヒヒと邪悪な笑みを浮べた。

「神鳴流、対巨獣奥義…」

「なぁ…、明らかにさっき見せてたのより強そうな響きだよな…?」

刹那の言葉に、イルゼは恐る恐る後退した。

「逃げなくてもええでぇ」

ニヒヒと笑みを浮べながら太刀を振り翳す刹那。

「待て…話せば解かる。話し合う。それが人間同士の交流というモノじゃないかい?」

イルゼが諭す様に言うと、刹那はニヤリと笑った。

「半妖と狼やから問題無しや」

「あの…本当にすいませんでした…。刀降ろしてくれませんかぁ?」

イルゼが必死に懇願すると、刹那はプッと噴出した。

「あれ?」

イルゼがキョトンとすると、刹那は笑い出した。

「冗談やって、まだうちには対巨獣奥義は使えへんよ」

「でもあるんだな…」

イルゼが言うと、刹那は得意気になった。

「せやで、神鳴流には、対地・空・水・弾・艦・獣・鳥・龍・魔・神とか、色々と専用の奥義とかあるんや。その時々の状況や敵に対応して、奥義を使い分け
るんが神鳴流なんや」

刹那の説明に、イルゼは「便利だなぁ」と呟きながら尻尾を振った。
すると、麻耶と妙、詠春が木乃香と共に近寄って来た。

「せやけど…でっかいなぁ…」

妙は自分の目線よりも高いイルゼの胴体に手を当てながら感心した様に言った。

「サングルゥモンだぜ」

イルゼが言うと、麻耶はイルゼの前に来た。
そして…。

「お手」

と言った。

「…………」

イルゼは黙って凶悪なスティッカーブレイドを振り上げた。

「振り落とそうか?」

イルゼに言われて、その振り上げた左前足についているステッカーブレイドに麻耶は冷や汗を流すと、肩を落とした。

「ごめん…。せやかて、なぁ…イルゼが大きな犬っころになってまって、…はぁ、散歩に連れ出したいわぁ」

「間違いなく町中がパニックになるから止しなさい」

詠春の静止に、麻耶は唇を尖らせた。

「とりあえず、サングルゥモンの技も見てくれよ」

そう言うと、イルゼは森に体を向けた。

「んじゃ、いくぜ」

そう言うと、イルゼは適当な木に狙いを定めた。

「スティッカーブレイド!」

両前足を上げ後足で飛び上がり、両前足を振り上げて落下が始まる前にスティッカーブレイドを放った。
すると、放たれたスティッカーブレイドの弾幕は、以前よりも増えていた。
それも、威力も上がっているのだ。

「あれ…?」

スティッカーブレイドは次々に分身し続け、森の木々に突き刺さっていく。
ブレイドは次々に生成され、その度にイルゼの体からエネルギーが奪われていく。
そして、イルゼは唖然としていたが、正気に戻ってステッカーブレイドの発動を停止させた。
森は、幾度の攻撃でかなり悲惨な状態に変わり果てていた。
真っ二つの木、折れている木、無数の穴が空いている木、木っ端微塵になっている木。
そして、イルゼは呆然とその惨状を見ていると、木乃香が口を開いた。

「威力が…上がってる?」

木乃香の言葉に、イルゼは頷いた。

「あ…ああ、多分な。ワーガルルモンをロードしたからか…?」

イルゼの呟きは戸惑いの色だった。
上がった…とは言っても、数が増える速度が上がったと言うのが正しい。
威力もどちらかと言えばスピードが上がったと言った方が正しいかもしれない。
木々を一発で破壊、とはいかなかった。
カイザーネイルの時は、木を次々に切り倒したのだから、その威力の差は歴然だろう。

「もしかして…この状態でも使えるのか…?」

イルゼは瞳を閉じる。
そして、何度もイメージするが、カイザーネイルは何度やっても発動しなかった。

「無理って事か…。イルゼじゃないとカイザーネイルは発動しない…?それとも、倒したのが人間の時だったから…?」

イルゼがブツブツと呟いていると、詠春が近寄って来た。

「ぶつかったかい?」

詠春の言葉に、イルゼは一瞬だけ困惑した。
だが、それが壁にぶつかったのかい?という意味だと悟ると、首を振った。

「違うよ。ちょっと、分からなかっただけだよ。多分、ワーガルルモンが力を貸してくれるのは、デジモンとしてじゃなくて、人間として戦ったからなのかな?
って思うんだ」

イルゼは右前足のスティッカーブレイドを振りながら言った。

「詠春、他にもあるんだぜ。見ててよ」

イルゼはそう言うと、詠春に笑って見せた。
その姿に、詠春は笑みを浮べて「ああ」と頷いた。

「んじゃ、木乃香、頼むぜ」

イルゼが木乃香に声を掛けると、木乃香は「分かったえ!」と返した。
そして、デジヴァイスに思考を集中させる。

――飛べ!!

そう、意識した瞬間に、デジヴァイスのパネルに、『風』に似た文字が浮かび上がる。

「いくぜ…モードチェンジ!」

そう呟くと、イルゼは駆け出した。
その瞬間、突風が吹き荒れた。
そして、イルゼのスティッカーブレイドの何本かが消滅し、紫の毛皮は空色に変化した。
背の真紅の翼模様は具現化され、巨大な翼となった。
そして、その翼をはためかせながらイルゼは大地を蹴った。

「サングルゥモン・ストームモード!グオオオオオオオオ!!」

凄まじい雄たけびを上げ、空中を飛行するイルゼは、詠春達の下に戻った。
着地する瞬間、凄まじい暴風が発生し、木乃香と刹那はバランスを崩しそうになった。
そして、イルゼが近づいてくると、刹那は見上げながら「ほえぇ」と口を開いた。

「イルゼも空を飛べるんやね」

刹那の言葉に、イルゼは「おう!」と応えた。

「その状態でも、スティッカーブレイドは使えるのかい?」
詠春が聞くと、イルゼは首を振った。

「なんか、この状態だとスティカーブレイドは出ないんだよ。代わりに、風を纏わりつかせて発動するストームスティッカーがこの状態での必殺技かな?威
力が無いのが欠点だけどさ」

「遠距離攻撃と、攻撃力を失った代わりに飛行能力を得たわけやね」

妙の言葉に、イルゼは頷いた。

「前にヤタガラモンを倒した時も、とどめはノーマルモードに戻ったしな」

イルゼはそう呟くと、詠春は眉を顰めた。

「イルゼ、ヤタガラモンの技は使えないのかい?」

詠春の言葉に、イルゼは何を言ってるのか分からなかった。

「そういや…、ヤタガラモンはどうなったんだ?俺は、倒した直後に意識を失ったから…」

イルゼが木乃香に顔を向けるが、木乃香も目を丸くしていた。

「うち、消えた後は…。でも、消えた後には何も無かったえ…?」

木乃香が言うと、イルゼは戸惑いを隠せなかった。

「どういう事だ…?俺は…でも、ヤタガラモンを倒した後、別にワーガルルモンの時みたいな夢は見なかったし…」

――あれ?

だが、イルゼは何かを見落としている気がした。
何かを…。

「思い出せないけど…なんだっけ…?」

イルゼがブツブツと呟いていると、詠春が手を叩いた。

「自分で振っておいて済まないが、今日はこのくらいにしておこう。考えても答えの出ない問題もある。そういうのは、意外な所から答えが出るものなんだ」

詠春の言葉に、イルゼは納得いかなげに首を捻りつつ、進化を解いて続いた。





時刻は、お披露目会が予想より長引いたので夕刻になってしまっていた。
食事を摂りながら、詠春は食事をしながら、関東魔法協会と他の魔術結社について話していた。
既に、心構えは出来ていると判断したからだ。
本当ならば、6歳の少年少女に話す内容ではない。
だが、ここで、麻帆良の厄介さと、世界の広さについて話しておくのも大切だと判断したのだ。
関西呪術協会と関東魔法協会の関係は少し複雑だ。
実際は、日本の魔術結社の最大手であり、日本中に触覚が伸びている。
関東魔法協会は、元々は日本の東を守護する関東呪術協会だった。
だが、西洋魔術の受け入れを独自に行い、独立してしまったのが関東魔法協会なのだ。
実際は、関西呪術協会というよりも、日本の魔術結社と異端の一派という関係なのだ。
だからこそ、麻帆良学園には多数の敵が居る。
『西』、魔法先生達の言うコレは、正確には日本の魔術結社全体を示している。
実際に、関西呪術協会だけならば、近右衛門と詠春が完全に統制を取ることが出来る筈だった。
だが、関西呪術協会は、只の筆頭であり、一番大きい組織なだけなのだ。

中国の『陰陽連盟』とも繋がる、『陰陽協会』。
東洋魔術を扱う忍者の里、『甲賀』、『伊賀』、『戸隠れ』、『裏江戸城御庭番』。
他にも、『心霊魔術結社』、『龍脈の守護集団』などが存在している。
実際に、個人レベルや中小組織まで数えたら必ず見落としが存在するだろう程存在しているのだ。

そして、少なからず西洋魔術を嫌う組織も多数存在する。
その上で、関西呪術協会という、日本で最大手の日本の魔術結社が関東魔法協会と手を結ぼうとしている。
これを面白いと思う組織と、面白くないと思う組織が存在するのだ。
故に、現在の関西呪術協会の結界はかなり強い者に変えられている。
周囲には、『守護大精霊結界』と呼ばれる結界が張られているのだ。
東方を守護し、春を司る、木の精霊『青龍』。
南方を守護し、夏を司る、火の精霊『朱雀』。
西方を守護し、秋を司る、金の精霊『白虎』。
北方を守護し、冬を司る、水の精霊『玄武』。
風水、陰陽道の基本である古代中国より受け継がれし思想であり、陰陽五行説に基づき、龍脈に開かれた龍穴に存在する関西呪術協会の本山を守護
する為に、風水で最も力のある精霊を、それぞれ東西南北に配置し、強力な結界と為したのである。
龍脈とは、山脈の事であり、関西呪術協会の総本山は、周囲を山に囲われ、その谷間に開かれた場所であり、龍脈の力の溜まる最も強力な地である
龍穴に構えられているのだ。
四聖獣。
青龍、朱雀、白虎、玄武、それらは、森羅万象を司る精霊と呼ばれる存在の上位に存在する、大精霊と呼ばれる存在だ。
異国、西洋では、それぞれを別の呼び名に変える。
四大元素とも呼ばれ、それぞれの属性も変る。
青龍は水の精霊、『ウンディーネ』。
朱雀は火の精霊、『サラマンダー』。
白虎は風の精霊、『シルフ』。
玄武は地の精霊、『ノーム』。
16世紀に、錬金術師であるパラケルススの提唱した概念であり、この世の理そのモノを現す存在なのだ。
この世の理、即ちはこの世そのモノである。
あらゆる事象に対しての高レベルの防御と反撃を可能とするこの結界は、ランク5000という、凡そ並みの人間では到達不可能な領域のあらゆる敵意を
遮断する。
魔は還る事も許されずに消滅し、あらゆる術は破壊され、人は『動く』を禁止される。
ランク5000、それは、死なない最低ラインというだけの話だ。
大精霊以上の存在を従える術以外、この地では敵意ある者は何も出来ないのである。
本来であれば、ここまでの結界を張る事など在り得ない。
何故なら、身内であれ、客人であれ、ある程度の敵意を持つ者は現れるのが必定だからだ。
だが、木乃香とイルゼ、刹那が危険に曝された時、詠春の怒りは凄まじく、身内であれ容赦をしないと言明したのだ。
そして、関東魔法協会と手を組む為の第一段階として、総本山の結界の強化が施されたのだ。

「ちなみに、大精霊以上の存在と言うと、マーカスクラスや、デューククラス、ロイヤルファミリークラスの悪魔、他にも人間による召喚という手順を踏まな
かった場合に力が開放された『鬼』、神霊や神、管理人、魔王といった存在だね」

詠春の説明を、松茸ご飯に醤油をかけて食べているイルゼは首を捻った。

「マーカスとかって何だ?それに、手順を踏まない鬼って?」

イルゼが首を捻ると、詠春が話した。

「まず、悪魔というのは力を中世の貴族の階級で示すんだよ。王であるロイヤルファミリー、公爵であるデューク、侯爵であるマーカス、伯爵であるエアー
ル、子爵であるヴィスコント、男爵であるバロン、準男爵であるバロネット、そして、準男爵以下はサーと呼ばれるんだ。基本的に召喚される悪魔はサー
クラスや、強力なレベルでもエアール、つまりは伯爵悪魔までしか人間に召喚されないから心配は無用なんだよ」

「召喚されない…?」

木乃香が聞くと、詠春は頷いた。

「マーカス…侯爵から上は、……そうだね、伯爵まで言っても精霊レベル。全ての力を解放しても、魔法使いと同等レベルの事しか出来ないんだよ。だけ
ど、侯爵から上は違うんだ。例えば、私の知る限りでは言霊を操る悪魔もいるそうなんだ」

「言霊?」

イルゼが聞くと、詠春は頷いた。

「言ってしまえば、言葉を発するだけで力を発揮するんだよ。まぁ、ロイヤルファミリークラスの悪魔の話で聞いたんだけどね。例えば、『太れ』と言えば、
言われた相手は太ってしまう。『赤ちゃんになれ』と言えば赤ちゃんになってしまう。とても恐ろしい力を持っているんだ」

「言った事が現実になるってかよ…なんか、ピエモンの技に似たのがあった気がするけど…怖ええな…」

イルゼが苦々しげに呟くと、木乃香と刹那も頷いた。

「お父様、鬼については?」

木乃香が聞くと、詠春は口を開いた。

「うん。鬼という存在について、君達はどう思っている?」

唐突に聞き返され、イルゼ達は戸惑った。

「えっと、怖い…かな?」

漠然としたイメージを言葉にした木乃香に、詠春は苦笑した。
そして、イルゼにも聞いた。

「どう思う?」

「どう思うか…って言われても…、角が生えてて…なんか凄い…?」

イルゼも絵本の中の鬼のイメージしか沸かなかった。
すると、今度は刹那に聞いた。

「刹那君はどう思う?」

刹那は、「えっと…」と考えながら口にした。

「うちは…、何度か見た事がありますけど、人間みたい…かな?」

「うん、間違ってない。そう、鬼っていう種族は人に近いかな」

そう言って、詠春はお茶を飲んだ。

「ただし、それは心の在り方って意味なんだ。力はどの化生よりも強い。何せ、その気になれば神とすら戦えるからね。…そうだね、この屋敷を西に向か
うと湖があるんだ。そこに、一体の鬼が封印されている。リョウメンスクナノカミって言ってね。とんでもなく強い」

「リョウメン…スクナ。おばあちゃんに聞いた事があるで?お父様と、ナギって言う人が倒して封印したんやって」

木乃香が言うと、詠春は頷いた。

「そう。確かに封印した。でもね、僕達が強かったとはとても言えない。確かに、ナギの力は偉大だった。でも、少し間違っているんだ。鬼っていう種族は、
人の召喚に応じて、この世界に力の一部を切り離して従う。」

「力の一部を…?」

イルゼが聞くと、詠春は頷いた。

「鬼には、幾つかの分類があるんだ。神として祭られる鬼。罪人が死後に転生した鬼。そして、種族としての鬼」

「神としてって?」

イルゼが聞くと、詠春は応えた。

「さっき言ったリョウメンスクナノカミや、閻魔大王の事だよ。色々な側面を持ち、姿も力も善悪すらも一定ではない。リョウメンスクナは、飛騨で暴れたと
いう逸話と、飛騨や美濃の英雄とされる逸話もある。そして、神々は、常に人の信仰に左右されるんだ」

「信仰に!?」

イルゼと木乃香、刹那は信じられない気持ちで聞いた。

「そう。信仰を馬鹿にしてはいけないよ。元々、精霊魔法の精霊も万物に宿る精霊も、人が感じ、人が名を授ける事で、この世に在る事が出来る。彼らは
この世のあらゆるモノを守護する存在。だが、本来、姿形を持たない故に名も無き存在。だけど、人が姿無き彼らを信じ、感じる。人が彼らを信じ、存在
を感じる事。その想いが…絆が、彼らの力となるんだ」

詠春は静かに語り続けた。

「その信仰が如何なるものであれ、人の信仰は精霊、果ては神やそれに近い悪魔達に力を与えるんだ。だから、鬼も悪魔も、人の召喚に応じる。その殆
どが人の信仰によって誕生し、力を得た精霊に近い鬼や悪魔だけなんだ。彼らは、種族としての鬼や悪魔とは違う。人の信仰が無ければ生きていけな
いんだ。だから、忘れられない様に、人の召喚に応じる。さっき言ったね?悪魔はマーカス以下しか従える事は出来ない。それは、人が悪魔の存在をあ
まり信じていないからなんだ。確かに…魔法使いは信じている。彼らが現実に存在するのが当たり前だから。だけど、魔法使い以上に、普通の人々には
既に架空の存在なんだ。信じる事が馬鹿らしい。知識でそういう概念は知ってても、本気で信じるのは馬鹿だって。だから、どれだけ魔法使いが信じてい
ても呼び出せるのはマーカス以下の伯爵までなんだ。それ以上の存在は、存在があやふやなんだ。勿論、種族としての悪魔は居る。その中にはマーカ
ス以上の悪魔も居る。でも…、そう言った存在は人にあまり干渉しないんだ。種族としての鬼もね」

詠春は言うと、木乃香は首を傾げた。

「どうして?」

「領域があるからだよ」

詠春の言葉に、イルゼは「領域?」と聞いた。

「そう。鬼は鬼の居るべき場所。悪魔は悪魔の居るべき場所。天使だって、天使の居るべき場所がある。それぞれがそれぞれの境界を決して越えない。
よく、鬼や悪魔を欲望の例えにするけど、鬼も悪魔も実際は人と関るのを良しとしていないんだよ」

「どうして?」

木乃香が聞くと、詠春は言った。

「人間と交わっても、悲しいだけだからだよ。それは、エヴァンジェリンと一緒に居たら判るんじゃないかな?」

その言葉に、イルゼと木乃香は言葉を失った。

「………置いていかれるからだよ。鬼も、悪魔だって、吸血鬼も他の色々な種族が色々な世界に存在している。人と彼らが共存していた頃、人間が分け
てしまったんだ。彼らを、別の世界に。そして、彼らは人間と交わるのを止めた。吸血鬼だけが、今でも人の世に時折現れる。だけど、鬼も悪魔も、人と
交わって、忌み嫌われるのは嫌なんだ。仮に、絆を結んでも、長くは一緒に居られない。人と、彼らは相容れないんだ。脆弱だからね…」

詠春は緩やかにそう話した。
そして、刹那は詠春を見た。

「でも、うちのお母様とお父様は…」

「そう。彼らは絆を深める道を選んだ。人が妖怪と呼ぶ種族。それでも、強く互いを思い合えた。どれだけの強さがあれば…」

詠春は目を閉じると、言った。

「種族としての鬼や悪魔の力は強い。凡そ、人が叶う相手では無いんだ。さっきも言ったね?言霊を使う悪魔の話を。他にも、恐ろしい力を持つ鬼や悪
魔は居る。でも、彼らは人の世に干渉しない。だから、覚えておきなさい。彼らが姿を現すのは、人の世が滅びに向かう時なんだ。太古の昔に交わった
人との絆を思う鬼や悪魔がこの世界に来る事が時々あるんだ。それは、決まって人の世の終幕への道筋なんだという事を…」

詠春の言葉に、イルゼ達は神妙に頷いた。
そして、詠春が言った。

「さて、そろそろ遅い時間になったね。明日こそ、京都見物に行こうか」

ニッコリ笑うと、詠春はそう言った。
そして、その日はゆるやかに過ぎ去っていくのだった。




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