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第88話『正体』
輝夜が戻ってきた時は、まだ秀以外は眠ったままだった。
秀は館の上で、空を見上げていた。
「中々どうして、凄まじい戦いだな。そう思わないか?輝夜」
屋上から飛び降りた秀は、唇の端を吊り上げながら輝夜に問うた。
「…?何の話ですか?それより、少しは手伝って頂ければ嬉しかったのですが」
輝夜は目を瞑った状態で、秀に不満をぶつけた。
普段の彼女とは違う、どこか甘えた響きを含ませながら。
「別に、俺が手を出す意味は無いだろ?イルゼと輝夜だけで事足りるだろうと思ったしな。それに、万が一にもミス研の部員が危険に曝されたら事だ
ろ?ここには色々と来てるようだしな」
秀の言葉に、輝夜は眉を顰めた。
「知っていたのですか?ここの事…、イルゼの事…、魔法使いの事…」
「教えなかったのは悪かった。と言ってもな、少しでも危なかったら助けるつもりだったんだぜ?俺が輝夜を死なせると思うか?」
秀は輝夜の耳元まで近づいて囁いた。
だが、輝夜はそのままイルゼを抱き抱えて屋敷に入って行った。
階段を上がり、イルゼの部屋にイルゼの体をゆっくり置いた。
「他の方は?」
輝夜が聞くと、秀は肩を竦めた。
「全員を部屋に運んである。まぁ、機嫌を直せ…とは言えんが、魔法使いに関しては俺には専門外なんだ。存在だけ教えても、こんな魔法使いだらけの
場所じゃ、俺の存在って結構なタブーだしな」
「私には分かりかねますね。昔…一度だけ教えてくれた貴方の正体…」
輝夜は秀をジッと見詰めて言った。
「ドイツ教会討伐機関所属の真祖、『破壊者』でしたか。あんまりに恥しい事を言うので、あまり追求はしませんでしたが…」
「は…恥しい…」
輝夜の辛辣な言葉に、秀は血を吐く思い出倒れ伏した。
そして、大きく溜息を吐くと、イルゼのベッドに座り、イルゼの体に手を乗せた。
「『"Κατ? Λουκ?ν Ευαγγ?λιον" και αποσπ?σματα απ?. Μπορε?τε Υι?? του Θεο?, ?δωσε ?ν
α μερ?διο στην ευλογ?ε? του γιου σου αγαπητ?. SE?να θα?μα θα προ?ρχονται απ? τ α χ?ρια μα?』」
秀がイルゼの顔の上で十字を切り、呪文を唱えると、イルゼの体の傷が一気に塞がり始めた。
「ッ――!?」
その様子を見て、輝夜は眼を見張った。
人間の体でこの様な事象が起こるなど在り得ないからだ。
輝夜は秀を見詰めると、秀は口を開いた。
「アーメン。とでも言えばいいかな?まぁ、神の力を借り受けるのは、俺達教会の専売特許だ。…っても、俺に力を貸すなんざ自分の信徒を裏切ってる気
もするがな」
秀の言葉に、輝夜はジトッとした目で秀を見ていた。
「…そんな目でみるなよ。まぁ、イルゼの方は体力が問題だな」
そ言うと、秀は輝夜の頬に手を当てた。
「『"Κατ? Λουκ?ν Ευαγγ?λιον" και αποσπ?σματα απ?. Μπορε?τε Υι?? του Θεο?, ?δωσε ?ν
α μερ?διο στην ευλογ?ε? του γιου σου αγαπητ?. SE?να θα?μα θα προ?ρχονται απ? τ α χ?ρια μα?』」
左手で輝夜の顔の上に十字を切り、そのまま輝夜の頬を舐め上げた。
「コレな、起きた状態でやるととんでもない事になるんだぜ」
「んん…ッ!ア…アァ…ヤッ…んあ、ひっ!っくあ…あぅあん」
輝夜の体に光が灯り、輝夜は顔を赤く火照らせて、秀の体に抱きついた。
急速な治癒による激痛を鈍らせる極度の快感。
全身をくまなく愛撫される感覚に、内側から快楽の炎が燃え上がる。
全身から汗が噴出し、頭はクラクラして目がチカチカと明滅する。
「まぁ、色々と俺に聞きたい事もあるだろ。風呂に入りながら聞かせてやるよ」
秀は目を細め、唇の端を吊り上げて言った。
輝夜の髪に顔を押し当てて臭いを嗅ぐ。
「汗がこんなに吹き出ているのに、お前は良い香りがするな」
秀の言葉は、輝夜には届いていないだろう。
幾度も訪れる快楽の波は、止め処なく輝夜を襲う。
そして、輝夜の背中と膝下に腕を入れると、輝夜を抱き上げて秀は外に出た。
すると、そこには一人の少女が居た。
「あんまり、虐めてやるなよ…ロリコン吸血鬼」
「とは言ってもな…。どうしようもなく愛おしいんだ。仕方あるまいさ、色欲さん」
秀は少女の皮肉に笑みを浮べて答えた。
「色欲っても、どっちかって言えば、御主人の傍に居る方が本体なんだがな」
「それでも、君の体は紛れも無く本物だ。寿亜里抄と言う少女の肉体…。それに、魂も…どのくらい融合してるんだい?」
秀の言葉に、亜里抄はニヤリと唇の端を吊り上げた。
「もう殆ど、私とアタシに差は無いさ。どちらの記憶も自分の事として感じられるんだぜ。まだ、時々人形の方ともリンクするけど、そろそろアッチの体とも
お別れだ…」
寂しそうに、亜里抄は言った。
そして、秀は「そうかい」とだけ言った。
「それにしても、この部活は大正解だったな。元々は、お前が二つの目的で作ったモノ。一つは、暴食を導くのに楽だから。学にこの部活に興味を持つ様
に誘導したのも手際が良かったしな」
亜里抄の言葉に、秀は肩を竦めた。
「まぁ、俺にとってはどっちかって言うと、もう一つの方が大事だったりするんだけどね」
秀の言葉に、亜里抄はククッと笑った。
「人間とお前じゃ、生きる時間が違い過ぎる…だから、人に戻る策を探る為…、イルゼについていれば、魔法使いにもコネが出来る可能性は高いしな」
「中々どうして、調停者なんてもんを引き受けちまったんだろうな?俺…」
秀の自嘲する様な言葉に、亜里抄は目を細めた。
「別に、人間に戻らなくてもいいんじゃないか?その気になれば、眷属にするなり、不老不死の手段なんて腐るほどあるだろ」
亜里抄が言うと、秀は亜里抄を睨み付けた。
「例え、人間に戻れなくても、俺は輝夜が老婆になっても愛し続ける。例え置いていかれても、俺は輝夜を俺と同じにはしない」
秀の言葉に、亜里抄は頬を緩めた。
「ああ、それがいい。クドラクみたいに、殺してくれる相手を見つけるのも悪くないけどな」
亜里抄が言うと、秀は溜息を吐いた。
「そうだな…。アイツはいい友を持ったよ。自分が愛して止まない相手に殺してもらえる…。不老不死の存在にとっては、この上なく最高のラストだ。ハッ
ピーエンドって言える程な」
「龍はまだ来ないのか?」
亜里抄が言うと、秀は首を振った。
「ゼロは来てるけど、龍の方は最後の時にしか姿は見せないだろ。アイツは、この上なく平等だからな。イヴに肩入れしたのだって信じられなかったが、
アレは必要な事だったからだしな」
「討伐されたら、何時また誰に転生するか分からない。だから、ゼロはデジタルワールドで死んでデータとなった私を人形に誘導した。護らせる為に…」
亜里抄の言葉に、秀は立ち止まった。
歩きながら話していたのだが、既に玄関前だ。
「お前は、義務でやっていたのか?」
秀が言うと、亜里抄は微笑んだ。
「まさか。御主人が大好きになっちまったからだよ。あんなに一生懸命な娘を私が嫌えると思うか?」
「光に厳しく、闇に甘い…か。ゼロの言うとおりだな」
秀の言葉に、亜里抄は首を振った。
「そうでもないぜさ。光にも、大分甘くなったよ」
亜里抄の言葉に、秀は目を閉じて言った。
「確かに…、そうなのかもな。それじゃあ、俺はお楽しみタイムだ。邪魔すんなよ?」
秀の言葉に、亜里抄はニヤニヤと唇の端を吊り上げた。
「せいぜい楽しめよ。人間は、そんなに長くは一緒に居てくれないんだしよ…」
亜里抄の言葉に、秀は目を閉じて微笑んだ。
「だからこそ、美しい時もある。刹那の間にしか生きられないからこそ、輝くのが、人間と言う種族だ」
そう言うと、秀は玄関を出て風呂に向かった。
そこで気が付いた。
「ああ、後で風呂に着替えを運んでおいてくれ」
「おいおい、それくらい最初に準備しておけよ」
亜里抄が言うと、秀は笑った。
「頼むぜ?後輩」
「あいよ…先輩」
それから、亜里抄は二人の着替えを風呂場に運んだ。
中から聞こえる声に、若干顔を赤らめながら、イルゼの部屋に入り、椅子に腰掛けた。
イルゼの体は既に僅かに傷が残っている程度だ。
「にしても、ロードした相手の技を使うとは、さすがと言うか、何と言うか…。喰う度に強くなる…か」
亜里抄は呆れた様に呟くと、イルゼの頬を撫でた。
「あの時以来…リリスモンの力が消えた…。色欲の席に新しいのが着いたんだろう…。暴食の席は…まだ空席なのか…?それとも…」
亜里抄はそう言うと、眠っているイルゼに目を細め、唇を重ねた。
「前世の恋なんざ、お前には関係無いだろうけどな…。ずっと一緒だぜ?…例え地獄へだろうとな」
そう言うと、亜里抄はイルゼの服を脱がせた。
そして、食堂からお湯を運び、タオルでイルゼの体の汗と血を拭った。
新しい服を着せて、亜里抄は立ち上がった。
「さてと、少し散歩でもして来ようかな」
そう言うと、亜里抄は部屋を出て行った。
最後に、イルゼの顔を一瞥してから。
湯船に浸かり、輝夜の体を抱き寄せながら、秀は輝夜の耳を口に含んだ。
「あ…んや…あぅ…」
輝夜の喘ぎ声が木霊する。
すると、秀は風呂の外で亜里抄の気配を感じた。
すぐに立ち去ったが、その慌て様に、秀はクツクツと笑った。
「さて、輝夜は何から聞きたいんだ?」
秀の言葉に、輝夜は荒く息を吐きながら言った。
「まず…その…あ、ああっ!その右手…離してください…」
輝夜は必死に懇願する様に言うと、秀はアッサリと手を離した。
「あ…」
「ん?離して欲しかったんだろ?」
秀は微笑を洩らして言うと、輝夜は肩を落とした。
「卑怯な方ですね」
輝夜の言葉に、秀は否定せずに輝夜の頭を撫でた。
「ああ、俺は…卑怯なんだよ」
秀はそう言うと、輝夜に口付けをした。
長く…長く…。
歯の裏側を舐め上げ、唾液を交換し、喉の奥まで舌を伸ばす。
そして、唇を離すと、お互いの唾液が絡まり、糸の様に伸びた。
「何が聞きたい?」
秀が聞くと、輝夜は口を開いた。
「貴方は…何者ですか?」
輝夜は言った。
今迄、一度も答えてくれた事も無く、一度も聞く気も起きなかった質問。
始めてあった日から、虐められていた自分を助けてくれた日から、告白した日から…、一度しか、秀は教えなかった。
まるで、冗談の様に、嘘の様に、言った。
『俺は、ドイツ教会討伐機関所属の破壊者なんだぜ?かっこいいだろ』
天真爛漫な笑顔に惹かれて、幼い心で、愛した。
そして、知りたいと願った。
それでも、聞く事が出来なかった。
不思議な少年。
輝夜の心を満たす少年に、輝夜は初めて問い掛けたのだ。
そして、秀は口を開いた。
「ドイツ教会討伐機関所属…吸血鬼の真祖。二つ名は『破壊者』。調停者とも人間は呼ぶ…」
「…………冗談ですよね?」
輝夜は振り絞る様に呟いた。
まるで、思いとは逆の言葉だった。
「嘘だと思うか…?」
秀の言葉に、輝夜は顔を俯かせた。
「吸血鬼って…何ですか?」
輝夜が聞くと、秀は口を開いた。
「吸血鬼。黒き血の月に守護を受けし超越者…。人の生き血を糧にして、生き永らえる醜悪な存在」
秀は輝夜の肩を抱き、頬摺りをしながら言った。
「真祖って…何ですか?」
輝夜の言葉に、秀は笑みを浮べて答える。
「親の事さ。全ての吸血鬼の…。人から吸血鬼になった存在…?馬鹿な事を考える。人から堕ちた者はただの死者でしかないというのに…。真祖とは、
真の祖。生み出す者だ」
「破壊者って…何ですか?」
「俺の事さ。原初の姫君、龍、悪魔の魔狼、介入者、そして…破壊者だ。歴史上で、世界が滅びに向かう時に、その元凶を殲滅する…。それが、破壊者
であり、調停者の俺の役割」
「嘘…ですよね…?」
輝夜は震える様に言った。
「嘘………本当にそう思うのか?」
秀の言葉に、輝夜は涙を零した。
「貴方は…、私をどう思っているのですか?」
輝夜の言葉に、秀は目を細めた。
「愛してる」
簡潔な言葉だった。
「嘘です…」
「嘘じゃないです」
輝夜が呟くと、秀は一層、輝夜を抱き締める力を強めた。
「嘘です…」
「嘘じゃないです」
「嘘です…」
「嘘じゃないです」
「嘘……」
「嘘じゃないです…いい加減分かれよ、コラ」
何度も繰り返される問答を、秀は口付けをして黙らせた。
唇が離れると、輝夜は薄く目を開けて秀を見た。
そして、秀は呟いた。
「俺は、輝夜が好きだ。だから、俺は―――ヒトになりたいんだ」
秀の言葉に輝夜は大きく目を見開いた。
そして、ジッと見つめる秀の目が揺れるのを見た。
「俺は、人よりも永く生きている。だから、もう休みたくてな…。愛しい人と添い遂げて…」
そう言いながら、秀は輝夜の頬を両手で挟み、軽く叩いた。
「なんてな」
「え?」
突然、何時もの秀に戻り、輝夜は戸惑った。
「何も変わらねえよ。俺は俺なんだからよ。それとも、輝夜は俺の事嫌いか?」
秀が言うと、輝夜は首を振った。
すると、秀は輝夜の頭を抱き締めた。
「ホントに可愛いなぁコイツ!」
秀は輝夜の髪に頬を擦り付けながら喜色満面の笑みを浮べて言った。
「まぁ、吸血鬼ったって、別に血を吸わないと生きられない訳じゃない。普通にしてれば普通の人間と同じなんだよ」
「…………」
「あれ?」
返事をしない輝夜に、秀は首を傾げると、輝夜が眼を回していた。
――ッ!
「しまった!?湯あたりしちまったのか!?」
その後、秀は急いで輝夜を風呂からだし、体を拭き、服を着せて自分の部屋に連れて行った。
――せっかく、シリアスに決めてたのによ…。
ちょっとガッカリしながら、輝夜の看病をするのだった。
翌日、目覚めないのはイルゼだけだった。
皆、昨晩の事は微かにしか覚えていない様で、目覚めないイルゼを、学とフェイは心配していた。
そして、三郎丸が眠りっぱなしのイルゼを抱えて、サムの迎えの船に乗って、一行は麻帆良学園へと帰還した。
イルゼは泣き止むと、エヴァンジェリンから離れた。
照れ臭そうに顔を赤らめてエヴァンジェリンに顔を向けている。
エヴァンジェリンは安心した様に溜息を吐くと、傍の机に置いてある果物の盛り合わせのカゴからリンゴとフルーツナイフを手に取り、皮を剥き始めた。
「ばあちゃん…」
「ん?」
「ただいま…」
「おかえり」
短い遣り取りだった。
たったそれだけで、イルゼは嬉しそうだった。
そして、エヴァンジェリンがリンゴを切り分けると、イルゼにフォークで刺して口の前に持っていった。
「ほら、あーん」
「あーん」
シャリシャリと音を立てて、イルゼはエヴァンジェリンの切ったリンゴをおいしそうに食べた。
「お腹が空いてるだろ…。信じられるか?一週間も眠ってたんだぞ」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは目を丸くした。
「ば、ばあちゃん!じゃあ、今日って何日だ!?」
イルゼが慌てて聞くと、エヴァンジェリンは日捲りカレンダーを指差した。
そこには…。
「八月十八日…。良かったぁ、まだ京都に行く日じゃない…」
イルゼは安堵すると、エヴァンジェリンを見た。
「ばあちゃん…何も言わないの?」
イルゼが言うと、エヴァンジェリンは優しく笑った。
「この一週間。中々慌しかったぞ。イルゼが眼を覚まさないから、高等部の三郎丸とやらが自分のせいだと言い出してな。私に土下座してきたぞ。それ
に、輝夜とやらは、突然頭を下げたかと思うと、お前が目覚めたらまた来ると言ってな。さっさといなくなってしまった。フェイと木乃香に至っては…後で元 気な姿を見せてやれ。心配のし過ぎで二人共夜も眠れずに食事も碌に取ってなかったからな。学がお前の寝姿に文句を言いに来たくらいだ」
クツクツと笑いながら、エヴァンジェリンは言った。
「学はいい奴だな。聞きたいのを我慢して、お前が話すのを待っている。話さない方がいいのだろうが…。それは、お前に任せるよ」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは顔を伏せた。
そして、エヴァンジェリンは言った。
「話してくれるか…?」
イルゼはゆっくりと頷いた。
「色々あったんだ…」
イルゼが話し始めた。
花崎島で起きた事件についてから、ワーガルルモンの夢の事まで全てを。
隠す必要が無いから。
全てを話し終えると、窓の外から茜色の陽の光が零れてきた。
全てを聞いたエヴァンジェリンは、黙ってイルゼを抱き締めた。
何も言わずに。
怒る事も無く、ただ只管に優しく抱きしめるのだった…。
そして、少ししてから離れると、エヴァンジェリンは顎に手を置いて目を細めた。
――また…、デジモンがイルゼの向かった先に現れた…。
エヴァンジェリンは目を閉じると、イルゼに言った。
「とにかく、無事で良かった…。ワーガルルモンか…」
「俺…、アイツをロードしたんだ…。それで…アイツの夢を見た。俺に力を貸してくれて…。別の出会いだったら…友達に…」
そこまで言うと、イルゼは俯いて歯を噛み締めた。
悔しさと怒りに…。
すると、エヴァンジェリンは厳しい口調で言った。
「イルゼ。ワーガルルモンはお前にありがとうって言ったんだったな?」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは頷いた。
「なら、お前が出来る事はワーガルルモンを忘れない事だ」
「忘れない…事?」
イルゼが当惑した様に呟くと、エヴァンジェリンは頷いた。
「復讐っていうのはな…、犠牲になった者が一番辛く感じる事なんだ。お前を友達になりたかったと言った…。でも、本当は違うだろ…?お前はもう…ワー
ガルルモンを友達だと思ってるのだろ?なら…、復讐をして、ワーガルルモンを悲しませてはいけないんだ。だって、ワーガルルモンは言ったんだろ?十 分だって。ありがとうって。なら、報いないといけない。ワーガルルモンの分まで幸せにならないといけない。自分の為に、イルゼが不幸の道を選んだら、 友達はどう思うかな?少し…考えてみようか」
エヴァンジェリンは諭す様に、ゆっくりと話した。
イルゼは黙って聞き、顔を俯かせた。
「でもさ…。酷すぎるじゃんか。村を襲われて…、操られて大切な仲間を殺させられて…。挙句に死ぬまであんな目に合わされて…」
歯が折れそうになるほど、イルゼは歯を強く噛み締めた。
顔を歪め、怒りに頭がおかしくなりおすだった。
だが、エヴァンジェリンは優しく頭を撫でた。
「そんな目に合ったワーガルルモンが、それでもお前に何と言った?」
エヴァンジェリンはジッとイルゼの目を見つめて言った。
イルゼは目を合わせているのが辛くなり、目を背けようとすると、エヴァンジェリンはイルゼの頬を両手で覆って顔を向けさせた。
「何と言った?」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは呟く様に言った。
「だったら…」
「…………」
「だったら、俺は…ワーガルルモンの為に何が出来るってんだよ…」
両手を握り締めながら、イルゼは呻いた。
自分に出来る事がしたい。
そう願うのに、何も出来ない事が、歯痒くて仕方が無いのだ。
すると、エヴァンジェリンは言った。
「言っただろ?お前に出来るのは、忘れない事だけだ…と」
「でも、そんなん…」
「分かれとは言わない。だが、想像してみろ。もしも、自分の為に誰かが復讐をして…お前はどう感じる?」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは言葉が紡げなかった。
嫌に決まっているからだ。
自分のせいで誰かが不幸になる。
そんなの…。
「難し過ぎるよ…」
イルゼは振り絞るように呟くと、エヴァンジェリンは頭を撫でた。
「ゆっくりでいい。考えてみろ。答えは何時だっていいんだ。時間は…たっぷりあるんだからな」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは頷いた。
そして、エヴァンジェリンは小さく息を吐くと、呟いた。
「それにしても、天王寺輝夜か…。何者だ…?」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは首を振った。
「分からないよ。でも、輝夜さんが居たから勝てたんだ…。俺一人じゃ…全然勝てなかった」
悔しげに、イルゼは言った。
エヴァンジェリンはクスリと笑い、イルゼに言った。
「なら、強くなればいい。それだけだよ」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは少し唖然とすると、頷いた。
「そう…だよな…」
イルゼはそう言うと、自分の右手を見た。
「カイザーネイル…」
右手を強く握り、イルゼは目を閉じた。
ジッと、ワーガルルモンを感じるように…。
すると、突然病室の扉がコンコンとノックされた。
「はい」
エヴァンジェリンが椅子から立ち上がり、扉を開くと、そこには知らない男が立っていた。
やたらと細長い男で、どこか蟷螂を髣髴させた。
浅黒い肌に、落ち窪んだ目、鷲鼻のその男は、丁寧にお辞儀をした。
「やぁ、どうも。ここはイルゼ君の病室で良かったですか?」
男はエヴァンジェリンに問い掛けると、エヴァンジェリンの疑心に満ちた眼差しに歓迎された。
「どちら様でしょうか?」
エヴァンジェリンが聞くと、男は人懐っこい笑顔を浮べた。
「僕は島田潔と言います。本日は、…ちょっとした取材をしたいと思いまして」
島田と名乗る男の言葉に、エヴァンジェリンは不快気に顔を歪めた。
「記者か何かでしょうか?失礼ですが、イルゼは疲れていますので」
「いえいえ、時間は取らせませんよ。ほんの少しお話をお聞かせ願えないかと」
エヴァンジェリンの言葉に、男はカラカラと笑いながら言った。
エヴァンジェリンは何とか追い返そうと口を開こうとしたが、イルゼが口を開いた。
「ばあちゃん、お客さん?」
イルゼが言うと、エヴァンジェリンが振り返り困った顔で何を言おうか迷っていると、島田はズンズンと中に入ってしまった。
「あ、おいコラッ!」
エヴァンジェリンが文句を言おうとすると、島田はイルゼに挨拶した。
「君がイルゼ君か。僕は島田潔。物書きをしているんだ。よろしくね」
再び、島田は人懐っこそうな笑みを浮べてイルゼに手を差し伸べた。
島田の顔は、その柔らかそうな黒髪と相まって余計に痩せこけて見えた。
40台を越えた当たりか…、島田の髪には数本の白髪が見て取れた。
一風変ったその男は、落ち窪んだ垂れ目やその顔立ちから、根暗で気難しそうな風に感じたが、イルゼは彼の口調とのチグハグさについ苦笑してしまっ
た。
そして、イルゼは島田に言った。
「物書きって、小説家?」
イルゼが聞くと、島田はニッコリと笑った。
「と言っても、まだ一冊しか出して無いんだけどね。この本だよ」
そう言って、島田は一冊の本をイルゼに見せた。
その本は…。
「これ!?亜里抄が言ってた本だ!」
「知ってるのかい?嬉しいなぁ。僕の本を読んでくれたのかい?」
島田が心底嬉しそうに聞くと、イルゼは「いや…」と歯切れ悪そうに首を振った。
「俺は読んでないんだ。友達が絶賛してたんだけどさ…」
「ふうん…。そうか、読んでないのか…」
島田は心底ガッカリした風に、どこか子供染みた態度で不満を隠そうともしなかった。
そんな島田に、イルゼはつい噴出してしまいそうになった。
そして、イルゼは言った。
「何か聞きたいことが?」
イルゼが聞くと、島田は言った。
「うん。君が泊まった花崎館について、話を聞きたくてね」
「花崎館の話?」
イルゼが聞き返すと、島田は頷いた。
「中村青司って知ってるかい?」
島田が聞くと、イルゼは頷いた。
「勿論。花崎館の改築に携わって、家主にも内緒で絡繰を仕込む謎の天才建築家だよな?」
イルゼが聞くと、島田は頷いた。
すると、エヴァンジェリンはゴホンと咳払いをした。
「イルゼ、お前は眠らないといけないんだ。島田さんも、お引取り下さい。この子には休息が必要なんです」
エヴァンジェリンが冷たい眼差しを向けて言うと、イルゼが「大丈夫だよ」と言った。
「ちょっと話すくらいなら大丈夫だよ。ばあちゃん」
イルゼが言うと、エヴァンジェリンは「しかし…」と忌々しげに島田を睨んだ。
だが、イルゼの顔を見て、諦めて「ジュースを買ってくるよ」と言って退出した。
それから、イルゼは花崎館に付いて語り聞かせた。
「へぇ、屋敷の模型お屋敷全体が絡繰の起動装置だったのかい?凄いなぁ、この目で見てみたかったよ。知ってるかな?あの島は元々一般人の立ち入
りが出来ない島でね。その後も個人所有になっちゃったから、機会がなくてねぇ」
島田は心底残念そうにそう言った。
そして、島田はイルゼが離している間に折っていた折り紙をイルゼに渡した。
「話を聞かせてくれてありがとう。お礼だよ」
そう言って、島田がイルゼに渡したのは『金色の折り紙の首が三つある龍』だった。
「これ…龍?」
イルゼが聞くと、島田はニッコリと笑顔で頷いた。
「キングギドラって言う映画の怪獣だよ。前に映画で見てね。色々と工夫して作ってみたんだ」
「すっげえ!こんなのつくれんのかよ!?折り紙って馬鹿に出来ねえな!」
イルゼが目を丸くしながら言うと、島田はカラカラと笑った。
「それじゃあ、そろそろお暇するよ。君のお母さんが怖いからね」
ウインクしながらそう言うと、島田は立ち上がった。
「じゃあね」
島田が手を振って去っていくと、イルゼも手を振り替えした。
そして、島田が出て行くと、エヴァンジェリンは入れ替わりに戻って来た。
どうやら、島田が出て行くのを待っていたようだ。
「まったく、あんな変な奴と仲良くするなんて…。ん?何だ?その折り紙は…」
エヴァンジェリンは目を丸くしながら聞くと、イルゼは島田が折ったものだと答えた。
すると、エヴァンジェリンは黙って破ろうとしてイルゼは必死に止めた。
それから、エヴァンジェリンはしばらくプリプリと怒っていたが、イルゼに果物を食べさせている内に怒りも静まっていった。
「さっき、先生と話してな。明日になれば退院出来るそうだ。明日は大変だぞ。特に、木乃香とフェイには泣かれるだろうから覚悟しておけ」
クツクツと笑いながら、エヴァンジェリンは言った。
イルゼはガックリと肩を落としながら呻きながら頷いた。
そして、その言葉は翌日に正解である事を証明された。
夏休みの間に二度も傷だらけで、今度は一週間も寝たきりだったので、木乃香とフェイは泣きじゃくりながらイルゼのそこかしこをポカポカと叩いてきた。
それは、ちっとも痛くなかったが、精神的に凄まじく辛かった。
その上、約束していた三人で遊園地も、京都に行く予定の日程が翌日に迫っていたので中止になり、木乃香が拗ねてしまったのだった。
何とか機嫌を直して貰おうと、あの手この手を使い、助言を誰かに求めようとしたが、学もイルゼの退院と同時に恭助の下に行ってしまい。
和美も取材だとどこかに行っており、イルゼはエヴァンジェリンに相談したが、苦笑するだけで何も教えてくれず、たった一言。
『自分で考えないと意味が無い』
で一蹴さえてしまった。
それから只管に頭を下げて、漸く口を聞いてくれたのは夕食の時間になってからだった。
「イルゼ、もう無茶はせえへんって約束やで」
ジトッとした目で威圧され、イルゼは何度も頷いた。
――怖すぎるだろ…。
目付きが尋常では無かった。
それから、夕食を食べ終わると、イルゼ達は京都行きの支度を始めた。
「やっぱり、ばあちゃん行けねえの…?」
今にも泣きそうなイルゼの言葉に、エヴァンジェリンは困った様に言った。
「すまんな。やはり、詠春も立場上、そうそう私を受け入れるわけにはいかないんだ…。元々、関西呪術教会の面々は、西洋魔法使いに良い感情を持っ
ていないからな。下手に刺激して、詠春に苦労を背負わせる訳にはいかんのだ…。済まないな」
エヴァンジェリンは、心底残念そうにそう言った。
本当ならば一緒に行きたい。
そう考えている。
だが、自分の我侭の為に、詠春に苦労を掛ける事は、久しぶりに父親と再会する木乃香との時間が取れなくなってしまうかもしれないという事なのだ。
それが分かるからこそ、エヴァンジェリンは身を引いたのだ。
本当は、詠春はエヴァンジェリンを迎える準備をしていたのだが、エヴァンジェリンの意思で今回は自粛する事になったのだ。
代わりに、来年は行ける様に、下の管理を徹底する様に詠春に頼むと、詠春は力強く了承した。
そして、何度も電話でエヴァンジェリンに感謝の思いを伝えた。
「おばあちゃん…」
木乃香は涙を溢れさせてエヴァンジェリンを見るが、どうにもならないと悟り泣きじゃくった。
イルゼもエヴァンジェリンと一緒じゃないのが寂しくて涙が溢れてきた。
なにせ、夏休みの間、イルゼは殆どエヴァンジェリンと遊ぶ事が出来なかったからだ。
刹那にもエヴァンジェリンを紹介したかった。
詠春とエヴァンジェリン、麻耶と妙と刹那と一緒に遊びたかったのだ。
それが出来ない事がイルゼと木乃香には悲しかったのだ。
そうして翌日になり、麻耶が自慢の愛車で迎えに来ていた。
駐車場で、エヴァンジェリンに抱きついて泣きじゃくる二人に、麻耶は心底驚き、優しく頭を撫でながら諭すエヴァンジェリンに更に驚いた。
「えっと…、闇の福音、イルゼとお嬢様が本当にお世話になっております。長も深く感謝しておりまして…」
麻耶は、世界でも指折りの実力者である真祖の吸血鬼を前に、完全に萎縮しながら言葉を紡いでいた。
すると、エヴァンジェリンはクスクスと笑った。
「へ?」
突然笑われて、麻耶は困惑した顔になると、エヴァンジェリンが言った。
「エヴァンジェリンだけで構わんよ。麻耶と言ったな?イルゼに話は聞いている。こちらこそ、毎日二人のおかげで楽しく充実しているよ。私の師事する様
提案してくれた事。詠春には深く感謝していると伝えて貰えるだろうか」
エヴァンジェリンが言うと、麻耶は「ひゃ、ひゃい!」と、エヴァンジェリンに気さくに話しかけられ驚きのあまりに舌を噛んでしまった。
その様子に苦笑すると、エヴァンジェリンは木乃香とイルゼの頭を優しく撫でた。
「しばらく、会えなくなるな…」
「ばあちゃん…」
「おばあちゃん…」
二人は再び涙を溢れさせた。
ちなみに、フェイとは既に別れを済ませてある。
フェイは、エヴァンジェリンとのお別れには邪魔だからと自粛して、寮の入口でお別れを済ませたのだ。
泣きじゃくりながら別れを告げるフェイに、イルゼは苦笑しながら「すぐ帰って来るよ」と言ってお別れのキスをした。
だが、エヴァンジェリンとお別れするのは、僅かな時間でも辛かったのだ。
何時も一緒に居てくれるのが当たり前となっていた彼女が一緒で無いのは、この上なく寂しかった。
「ほらほら、向こうで友達が待ってるんだろ?楽しんで来い。二学期には帰ってくるんだから、もう泣くな」
優しく微笑みながら、エヴァンジェリンはイルゼと木乃香の頬にキスをして、立ち上がった。
最近は、子供の姿の時の方が稀になっている。
そして、エヴァンジェリンは麻耶に言った。
「それじゃあ、道中気をつけて。私が言うのはおかしな気もするが…、二人をよろしく頼む」
エヴァンジェリンの言葉に、麻耶は深呼吸すると、しっかりとエヴァンジェリンを見返した。
「はい。闇の…いいえ、エヴァンジェリンはん。それでは、また二学期の前日には二人を連れて帰りますんで」
麻耶はそう言うと、エヴァンジェリンに頭を下げた。
「それじゃあ、イルゼ、お嬢様、車に乗って下さいな」
麻耶が言うと、木乃香とイルゼはもう一度エヴァンジェリンに抱きつくと、エヴァンジェリンに名残惜しげに手を振りながら車に乗り込んだ。
車が発車しても、エヴァンジェリンの姿が見えなくなるまで手を振り続け、見えなくなると、二人は最初に麻帆良に来た日と同じ様に、ずっと泣きじゃくり、
そのまま眠ってしまうのだった。
その様子を見て、麻耶はエヴァンジェリンの事を考え直した。
恐ろしい噂とは掛け離れた彼女の姿と、二人の子供の様子を見て、それでもエヴァンジェリンを悪と感じる人間など、この世に存在しないだろう。
そう、思ったのだ。
そして、麻耶の日産BLUEBIRD SYLPHYは、一路関西呪術教会へと出発したのだった。
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