![]()
第80話『事件ファイルT・後編』
イルゼ達が中を見ると、天窓からの明かりで、床に倒れている信玄の姿が見えた。
頭からは床にまで血が出ている。
そして、イルゼは呆然と視線を彷徨わせていると、床にプラスチックの屑篭が倒れていた。
何故か、その周囲の畳には水が垂れている様だった。
「イルゼ…?」
朝倉が声を掛けると、イルゼはようやく正気に戻った。
「どうしたの…?」
そう言って、入ろうとした朝倉と隣の早苗を急いで仕事場から離した。
「見んな!」
そう言って、イルゼは朝倉と早苗の腕を取って、母屋に向かった。
「ちょっと…、イルゼ!離してよ。何があったの?」
朝倉が聞くと、イルゼは早苗を見た。
無表情でも、何処となく不安そうにしている。
言うべきかどうか、イルゼには分からなかった。
そして、イルゼが視線を仕事場に向けると、中に居た裕次郎や悟、徹が出て来た。
裕次郎は肩を落とし、俯いている。
悟は目を瞑り、必死に感情を抑えている様に見える。
徹は、忌々しげに、恐らくは犯人に対して憤っているのだろう。
悟が明美を支えていて、雪枝さんを裕次郎が抱き締めている。
信玄の死体に向かって、雪枝が何事かを叫び、裕次郎が必死に雪枝を抑えている様だ。
そして、裕次郎が言った。
「誰か…、警察に連絡してくれ」
裕次郎が言うと、徹が頷いた。
「私がやろう」
そう言って、徹は母屋に歩いて行った。
それを見届けると、イルゼの服を誰かが引っ張った。
後ろを振り向くと、それは早苗だった。
「じぃじ…いない。皆…大変そう…起す」
早苗はそう言った。
そして、イルゼはどうしていいか分からなくなった。
すると、朝倉がニカッと笑い掛けた。
「早苗、ごめんね。信玄さん、ちょっと忙しいみたいなんだ。ほら、出張よ。出張!」
「…………出張?」
「そう。ちょっと、遠くに行ってるんだよ」
そう言って、無理に笑顔を作っているのは誰の目で見ても明らかだった。
朝倉もいい加減気が付いた。
当然だろう。
警察を呼んで、救急車は呼ばなかったのだから。
そして、それでも早苗にそう言った。
そして、朝倉の声が大きく、雪枝達にも聞こえた様だった。
そして、裕次郎と悟が無言で頭を下げた。
朝倉に感謝してだ。
「何時までも、ここにはいられない。警察が来るなら、現場も荒らせないだろうし…。母屋に戻ろう。明美、行こう」
悟がそう言って、明美の肩を抱いたまま母屋に向かって歩き出した。
イルゼも息を小さく吸うと、朝倉と早苗に言った。
「行こうぜ」
「うん」
「…………」
イルゼが言うと、朝倉と早苗は頷いて、イルゼに続いて、母屋の外廊下に上がった。
その後に、悟達も外廊下に上がると、徹がやって来た。
「警察は、数分で来るそうだ。全く、誰が信玄さんを殺したんだか」
その言葉に、早苗の目が見開かれた。
「じぃじ…?」
早苗が徹を見ながら言った。
「なんだ?」
徹は忌々しげに早苗を睨みながら聞いた。
すると、裕次郎が怒鳴った。
「その顔を止めろ!」
すると、徹は忌々しげに舌打ちすると、廊下の奥に去って行った。
そして、早苗は不安そうに明美を見た。
「じぃじ…。出張…違う?」
その言葉に、明美は唇を震わせた。
そして、裕次郎が言った。
「ち、違わないよ。あの兄ちゃんの何時もの意地悪さ。全く、仕方ないな。今度、兄ちゃんがとっちめて…とっちめてやるよ…」
すると、裕次郎の声が震えた。
だが、早苗に涙を見せない様に必死に堪えると、すぐ隣の障子を開いた。
「そ…そうだぁ!俺…ココアを炒れて来るよ」
「それなら…私も付き合います…」
そう言って、裕次郎と雪枝はキッチンに向かって去って行った。
そして、残された明美と悟、イルゼ、朝倉、早苗も、部屋に入った。
そして、昨晩食事をした場所にイルゼ達は残り、悟は明美を連れて自室に戻った。
「そ、そうだ。トランプでもしないか?」
少しでも気を紛らわしたくて、イルゼは提案した。
それに、朝倉も「いいね」と笑って同意した。
だが、その笑顔はどこまでも歪だった。
「早苗、ちょっと待っててくれ。二階からトランプ取って来るからよ」
イルゼが言うと、朝倉を連れて二階に上がった。
そして、二階に上がり、トランプは直ぐに見つかったが、イルゼは朝倉に言った。
「ちょっと…、休むか?早苗の相手は俺がやってるからさ…」
イルゼが言うと、朝倉は首を振った。
「大丈夫。私は実際は見てないからさ…。それに、人の死もこれが初めてじゃないんだよ。守森村を除いてね。だから、平気。それに、一人で居たら逆に
ナーバスになっちゃうって。ダウトでもやろうよ」
そう言うと、朝倉は笑顔を作って階段に向かって行った。
そして、イルゼは額に手を置いて、溜息を吐いた。
「駄目なのは…俺の方なんだよな…」
そう言うと、イルゼは、部屋の隅にある、昨晩に信玄が朝倉に渡した木箱を見つけた。
そして、何ともなしにそれに近づくと、突然背筋が冷たくなった。
――ッ――!?なんだ、今の!?
そして、イルゼは木箱を見た。
木箱は、一見は何の変哲も無い様に見える。
そして、イルゼは木箱を触ってみた。
すると、突然眩暈がした。
そして、眩暈がする中で、何かが体の中から外に這い出た感触を覚えた。
そして、目も眩むような閃光が一瞬だけ見えて、消えた。
「何だ、――今の」
イルゼは木箱を触れた掌を見て眉を顰めた。
そして、もう一度触ろうとして、階段の方から朝倉の声が聞こえた。
「イルゼェ、早く来ないと始めちゃうよぉ!」
「直ぐ行く!」
朝倉に返事を返して、イルゼはもう一度木箱を見ると、その場を立ち去った。
そして、イルゼが立ち去った後、木箱の中に何かが落ちる音がした。
そして、イルゼが階段を降りて、部屋に入ると朝倉と早苗が先にババ抜きをしていた。
それを見ながら座ると、早苗がイルゼに言った。
「…………遅い」
「悪い。ちょっとな」
早苗に言われ、右手を上げて謝ると、障子が開いた。
そこから、悟が入って来た。
「…………お父さん」
早苗は悟を見ながら言った。
すると、悟は早苗に近づいて早苗の頭を優しく撫でた。
そして、優しく微笑むと朝倉とイルゼの頭も順に撫でた。
そして、フッと息を小さく吐くと、少し離れた場所で座り込んだ。
そして、すぐに再び障子が開かれ、雪枝と裕次郎が入って来た。
「ココアを入れましたよ」
そう言うと、雪枝はお盆に乗せたココアを裕次郎と共に配り始めた。
その目は僅かに赤くなっている。
ココアを炒れるにしては時間が掛かっていたので、漠然と泣いていたんじゃないかとイルゼは思った。
そして、配り終えると玄関のチャイムが鳴った。
すると、悟が顔を上げた。
「多分、警察だろう。俺が出るよ」
そう言って、悟は部屋を出た。
そして、イルゼ達はトランプを片付けた。
すると、何人かの制服姿の警官と、黒い背広を着込んだ若い男が部屋に悟と共に入って来た。
黒髪のオールバックで、背広は少しくたびれていた。
背広の男は制服姿の数人の警官に指示を出すと、部屋に入って来た。
「どうも、警視庁の榊です。連絡を受けて来たのですが、詳しい話をお聞かせ願えますか?」
榊は雪枝と裕次郎に言った。
それに、二人は頷くと、悟が口を開いた。
「徹を呼んでくる」
そう言うと、悟は部屋を出て行った。
そして、イルゼ達はどうしていいか判らなくなり、困っていると、雪枝が言った。
「ああ、貴方達はもう帰った方がいいわね。ええ、そうです。帰らないといけません。貴方達は関係無いのですから」
捲くし立てる様に雪枝が言った。
だが、朝倉が首を振った。
「あ、あの…。もう少しだけ、早苗ちゃんと一緒に居させて貰えませんか?」
そう言った。
イルゼも頷いた。
「もう少しだけ。お願いします」
イルゼが言うと、雪枝は「でも…」と渋ったが、悟が笑いかけて口を開いた。
「それじゃあ、早苗の事を少しお願いするよ。でも、警察の人の邪魔はしない様にね?そうだ。父さんの部屋で遊んでおいで」
悟が言うと、イルゼと朝倉はアイコンタクトをすると頷いた。
そして、早苗を連れて二人は二階に上がった。
そして、三人はトランプに興じた。
何度も何度も。
だが、気分は盛り上がらなかった。
イルゼと朝倉の暗い気分が分かったのだろう。
早苗も悲しそうな表情でトランプを続けた。
そして、イルゼは頭の中で何かが引っ掛かった。
そして、気が付くと太陽が傾いていた。
そして、一階が騒がしくなった。
「どうしたんだろ?」
朝倉が言うと、イルゼも首を捻って立ち上がった。
「ちょっと見てくるよ」
「あっ!私も行く」
「…………行く」
イルゼが障子を開けると、朝倉と早苗もついて来た。
そして、階段を降りると、榊が明美に手錠を掛けていた。
「…………お母さん」
早苗が言うと、榊や裕次郎達はぎょっとした。
そこには、雪枝、悟、裕次郎、徹、明美、榊、そして数人の警官が集まっていた。
そして、イルゼはつい叫んだ。
「な、何で明美さんに手錠なんてつけてんだよ!?」
イルゼが叫び、早苗が不安そうに明美を見ているのを見ると、榊は困った様な顔をした。
「…君達は部屋に戻ってなさい」
榊は有無を言わさぬ口調で言った。
だが、朝倉が言った。
「明美さんが、信玄さんを?」
「…………え?」
朝倉の言葉に、早苗は困惑した様に明美を見た。
すると、明美は首を振った。
「違うのよ!いきなり、この刑事さんが…」
明美が言うと、悟が言った。
「刑事さん。説明して下さい。そうじゃなきゃ、早苗の前で、明美を連れて行かせたりはさせませんよ」
悟の言葉に、榊はゴホンと咳払いをした。
「まぁ、いいでしょう…。皆さんに事情聴取をさせて貰いました。そして、鑑識で、昨晩皆さんが飲んだと言うココアと、それに入れた牛乳と砂糖。それに、
カップなどを検査した所。砂糖に睡眠薬が混入されていたんですよ」
榊の言葉に、悟は困惑した。
「さ、砂糖に睡眠薬が…?何でそんな…」
「理由は、恐らくは犯行時に気付かせない為でしょう。皆さんに聞いた話では、昨晩のココアを飲んだ時、砂糖を入れなかったのは明美さん。貴女だけで
す。だと言うのに、砂糖を持って来たのも貴女だ」
「それは!」
榊の言葉に、明美が反論しようとすると、榊は更に口を開いた。
「更に、決定的なのは足跡ですよ」
「足跡?」
裕次郎が聞いた。
「そうです。この家の外廊下から仕事場まで、皆さんの証言によると、朝は下駄の足跡と山本明美さん。貴女の足跡だけがあったとか。つまり、睡眠薬を
飲まされた信玄さんは、何かの拍子で眼が覚めてしまったのでしょう。そして、雨が降る前に母屋に入り何かをしていた。そして、雨が降ってくると、急い で仕事場に戻った。その時に、下駄の足跡が残ってしまったのでしょうね。現に、仕事場にあったゲタの足跡と、僅かに残った足跡が一致しました。っそ ひて、貴女はそんな足跡にも気が付かずに、仕事場に行き、何か鈍器の様な物で殴り殺した。貴女の部屋を捜索した結果。見つかりましたよ。血痕の 付着した天狗の面がねぇ。大方、前々から準備していたんでしょう。ですが、殺人と言う異常な行為を行う時、誰しもまともな精神状況ではいられない。自 分では完璧だと思っていたのでしょうが、結果は穴だらけだ。部屋の屑入れもひっくり返していましたよ。中身は空っぽで、木屑が部屋中に散らばってい た。動機は、貴女の両親の借金ですな?山本信玄さんには、保険が掛けられていた。それも、息子の悟さんに渡る様にね。大方、保険金目当てだった のでしょう」
榊はそこまでを一気に言い終えると、明美を連れて行こうとした。
すると、早苗は口を開いた。
「…………お母さん」
不穏な空気を感じたのだろう。
早苗は不安げに言った。
そして、イルゼが口を開いた。
「待ってくれ!睡眠薬入りの砂糖を入れてなかったり、足跡が二つしかなかったからって明美さんが犯人だとは限らないだろ!」
イルゼが言うと、榊は疲れた様な視線をイルゼに向けた。
「子供は黙っていなさい。さっ、行きますよ。山本明美さん」
「だから待てって!砂糖入れても、睡眠薬飲まない方法ならある!それに、足跡だって!」
イルゼが言うと、榊は言った。
「ふむ、砂糖を入れても睡眠薬を飲まない方法かい?それは面白そうな話だけど。足跡についてもどうしようもないんだ。いいかい?足跡は最初は二
つ。一つは山本明美さんのものだ。そして、もう一つは山本信玄さんのであり、その下駄も、仕事場の玄関にあったのだよ。ミステリー小説なんかだと、 後ろ向きに歩いて現場から立ち去った…と言うのもあるけど、それでは下駄が仕事場にあるのはおかしいじゃないか。つまり、犯人は…」
まるで、言い聞かせる様に榊は丁寧に説明するが、イルゼが言った。
「そうじゃない!足跡は、雨が降る前に付けられた物かもしれないだろ!」
イルゼが言うと、榊は目を丸くした。
「何を言ってるんだい?いいかね、足跡は乾いた地面の上では少ししかつかないし、雨が降れば流れてしまうんだよ」
榊が言うと、イルゼは忌々しげに顔を歪めながら言った。
「だから、雨が降る前につけたんだよ!地面を濡らしてさ!」
「ッ――!?」
そこまでイルゼが言うと、ようやく榊はイルゼの言っている意味が分かった。
「……君、砂糖を入れても睡眠薬を飲まない方法があると言っていたな?」
榊は今度は真剣な表情で聞いた。
それに、イルゼは「ああ」と頷いた。
そして、イルゼは言った。
「簡単だよ。熱いココアに牛乳を入れるとどうなる?」
「え?…それは…」
イルゼに問われて、榊は言葉を詰まった。
そして、朝倉が口を開いた。
「あっ、膜が出来る」
朝倉の言葉に、イルゼは頷いた。
「あの膜が出来上がってから、その上に砂糖を落とすんだよ。あの膜、案外丈夫でさ。上に砂糖程度なら乗せても破けない。そんで、膜で砂糖を包んで、
ココアを飲めばいい。そうすりゃ、砂糖を入れても、睡眠薬は飲まなくて平気だろ?んで、皆が眠っている間に事を済ませるんだ」
「だ、だが…。そう巧くいくだろうか。膜が破ける場合だって…」
「んなもん、失敗したらその時点じゃ何もしてないんだし、諦めればいい。それに、早々簡単には破けないよ。コップの壁面に押し付ければそれで済む
し、全部飲む必要も無い。飲んでる間に膜が破けたらそこでご馳走様でもいい訳だ」
イルゼが言うと、榊は「確かに…」と言った。
そして、イルゼは続けた。
「んで、犯人は多分、途中で破けたんだよ。だから、途中で飲まなくなった」
「ッ――!君は、犯人が分かってるのかい?」
榊が眉を顰めて聞いた。
「え?マジなの?イルゼ」
朝倉も驚いた様に聞いた。
そして、イルゼは言った。
「って言うか、さっきね。なぁ、倒れてたって屑篭。本当に中に何も入ってなかった?」
イルゼが聞くと、榊は「あ、ああ…」と頷いた。
その頬には汗が垂れていた。
そして、イルゼは言った。
「本当に?木屑が一つも無かったわけ?」
イルゼが聞くと、榊は首を振った。
「い、いや。僅かに屑篭の壁面にへばり付いていた…」
「それってさ。どうしてくっ付いてたんだ?」
イルゼがニヤリと笑いながら聞くと、榊はようやくイルゼの言いたい事が分かった。
「そうだ…水だ。あれで足跡を作ったのか。ッ――!?という事は、君の言ってる事は真実って事か!?」
榊が言うと、イルゼは邪悪な笑みを浮かべた。
「なぁ、昨日の事を覚えてるか?朝倉」
「え?わ、私!?」
朝倉は言われて目を丸くした。
「そうだ。思い出してみろよ。昨日、来た時に確か雪枝さんはバケツ…使ってたよな?」
「う…うん…」
イルゼの言葉に、朝倉は頷いた。
「覚えてるよ。昨日の事だし」
朝倉の言葉に、イルゼは邪悪な笑みのまま頷いた。
「んで、その後に悟さんがしまった。その後、徹さんが車を洗いたいと言った時に、裕次郎さんが自分が持っていくと言った。…もちろん、バケツやホース
の事だ。明美さんも、花壇に水をやるからとホースを取りに行ったよな?」
イルゼが聞くと、朝倉は頷いた。
「ねぇ、イルゼ。何が言いたいの?」
朝倉が訝しみながら聞くと、イルゼは言った。
「そういや、昨日のお昼はお茶を出して貰ったのに、夜はなんでか牛乳しかないって雪枝さん言ってたよな?」
イルゼの言葉に、裕次郎が頷いた。
「ああ。確かに、昨日は少ししか残ってない牛乳しか無かったんだ」
裕次郎の言葉を聞いてから、イルゼが言った。
「なぁ、誰だっけ?ココアを持って来たの。誰だっけ?ホースもバケツも場所を知らない人」
イルゼが言うと、皆が一人に視線を集中させた。
その先には、徹が居た。
そして、徹は鼻で笑った。
「おいおい。皆どうかしているんじゃないか?こんな、子供の言葉に振り回されて。そもそも、証拠が無いじゃないか。それに、動機は?全く。馬鹿な事を
していないで。榊刑事。さっさと、明美を連れて行って下さい。全く、こんな下らない茶番に付き合ってる暇は…」
徹がそう言うと、警官の一人の電話が鳴った。
そして、警官が榊に耳打ちした。
「どうした?」
榊が聞くと、警官はボソボソと言った。
「なに!」
警官の言葉に、榊は目を丸くした。
「どうしたんですか?」
悟が眉を顰めると、榊は狐に抓まれた様な顔で言った。
「や…山本信玄さんの意識が戻ったそうです」
「は?」
榊の言葉に、誰も言葉が発せられなくなった。
イルゼや徹もさすがに声も出せなかった。
「ば、馬鹿な!?死んだ筈では!?」
徹は目を血走らせて聞いた。
すると、榊も困惑した様に電話に耳を付けた。
そして、しばらく話すと、口を開いた。
「な、何でも…。後頭部への衝撃で、身体への指示を出す脳から伸びる伝達神経が麻痺していた様で…。一時的な仮死状態に近かった様です…。現
在、病院に搬送されましたが、意識は僅かに混濁しているものの…。命には別状無いだろうと」
「で、ですが…。確かに脈も呼吸も無かった筈じゃ…」
悟が困惑した様に言うと、裕次郎が言った。
「いや…。あの時確認したのは俺だけど。腕の動脈に指を当てたけど、何にも感じなかった。だけど、もしかして俺が気が付かなかっただけだったかも
…」
裕次郎が言うと、榊が口を開いた。
「無い事も…ありませんな。そもそも、人が倒れている状態だったのですから、冷静に判断出来なかった可能性もあるでしょう…。死体…と思われてい
た、山本信玄さんは、部下に搬送させていたので…」
「じゃぁ、師匠の意識がハッキリすれば!」
裕次郎はニヤリと笑って徹を見た。
「誰が犯人かハッキリするって訳だ」
裕次郎の言葉に、徹は舌打ちした。
「まさか…。生きてやがるとはな…」
そう言って、徹は観念した様に口を開いた。
「まっ、そこのガキの言った通りだ。中々やるじゃないか」
徹は見下す様にイルゼに言った。
「ぶっちゃけ、ホースかバケツの場所くらい確認しとかないのはどうかと思うぜ?」
イルゼが面倒臭そうに言うと、徹は肩を竦めた。
「さてな。明美がそのまま捕まるだろうと高を括ってたせいさ」
すると、悟が徹の肩を掴んだ。
「どうしてだ?どうして…父さんを?」
悲しそうな顔で、悟が聞くと、徹の瞳が少しだけ揺れた。
「まぁ、金かな。ほら、俺って師匠の面を売る仕事もしてるだろ?他にも、この家の経済面も管理してる。今のご時勢、面を売るだけでそこまで儲かると思
うか?その上、師匠は面を売るの嫌がりやがってよ。このままだと、拙かったのさ。まぁ、そんだけだよ。俺は警察に行く。そんで、罪を償ってくるさ。それ で…いいだろ?」
「徹…?」
最後に、寂しそうに悟を見ると、徹は榊に「行きましょう」と言った。
「あ、ああ…」
余りに呆気なく、榊は呆然としていたが、すぐに正気に戻り、明美に謝りながら手錠を外すと、部下の警官に徹を連れて行かせた。
そして、その後、榊に言われ、色々と話を聞かされ、最後に、榊はイルゼに顔を向けた。
「君の名前、何と言ったかな?」
「イルゼ。イルゼ・ジムロックだよ」
「そうか。覚えておこう…」
そして、笑い掛けると、榊はイルゼの頭を軽く撫でて出て行った。
それから、イルゼ達は信玄の入院した麻帆良市の麻帆良第一総合病院に向かった。
麻帆良学園にも近い場所で、イルゼと朝倉も同行したのだ。
だが、頭部を強く打っている為か、面会は出来なかった。
朝倉の貰った木箱は少し大きいので郵送して貰っている。
そして、空が赤くなった頃、イルゼと朝倉は、帰る事になった。
「…………」
病院の玄関ホールの前で早苗がジッとイルゼと朝倉を見ていた。
「あ…んじゃ、またな」
イルゼは早苗に右手を上げて言うと、朝倉も「じゃ、じゃあねぇ」と言いながら手を振った。
そして、二人が歩き出すと、早苗がついて来てしまった。
「お…おい…」
イルゼは朝倉に言うと、朝倉も困った様に笑っていた。
そして、イルゼは溜息を吐くと言った。
「そういや、早苗は来年から小学校だよな?」
イルゼが振り返って言うと、早苗は頷いた。
「んじゃさ。来年、麻帆良学園に来いよ!」
イルゼが言うと、早苗は驚いた様に目を丸くした。
「あっ!いいね!早苗の家、麻帆良学園からちょっと遠いから、手軽には行けないけどさ。麻帆良に入学したら、一緒に遊べるよ!」
朝倉も賛成して言うと、早苗はイルゼを見た。
「…………本当?」
早苗が聞くと、イルゼは「ほんとほんと」と笑顔で頷いた。
すると、早苗は無表情を僅かに嬉しそうにして頷いた。
「麻帆良…行く」
「おう!待ってるぜ!」
「私も待ってるよ!」
イルゼと朝倉が言うと、早苗はコクンと頷いた。
「んじゃな!」
「またね!」
二人が手を振って去ると、早苗は何時までも手を振っていた。
麻帆良に戻って来て、朝倉はイルゼと別れると龍宮神社に寄った。
そして、宮司さんの居る神社の奥の家のチャイムを鳴らすと、宮司の辰之助が出て来た。
「おぉ、和美ちゃん。待っとったぞ。少し時間は掛かったがの。ほれ、この通りじゃ」
そう言うと、辰之助は朝倉に三枚の藁半紙を渡した。
「これが、あの最後のページに書かれてた文章?」
朝倉が藁半紙を受け取ると、聞いた。
すると、辰之助は頷いて答えた。
そして、辰之助は言った。
「どうじゃ?ちょっと、お茶を飲んで行かんかね?」
辰之助が言うと、朝倉は腕時計を見た。
「うぅん。まいっか。飲んでく飲んでく!」
朝倉はそう言うと、辰之助に誘われて家の中に入って行った。
そして、一室で辰之助が淹れてくれたお茶を、出された御萩をお茶請けに飲んでいると、朝倉は辰之助に、山本家での出来事を話した。
すると、辰之助はお茶を啜り、目を瞑りながら溜息を吐いた。
そして、口を開いた。
「そうじゃのう。儂は、あの子達の事を昔から知っておった」
「あの子達って、裕次郎さん達?」
朝倉が聞くと、辰之助は「うむ」と頷いた。
「悟、裕次郎、徹。それに、明美。あの四人は、この学園の卒業生なんじゃよ。あの頃は、信玄もここによく来てのう。信玄に連れられて、よく遊びに来て
おった。儂の倅も一緒にな。そして、あの子達は本当に仲が良かったんじゃ。特に、あの頃体の弱かった悟を、徹は必死に守っておった」
「それって…もしかして…」
辰之助の言葉に、朝倉は目を丸くした。
そして、「そっか」と顔を伏せた。
「まぁ、理由の一端ではあったじゃろうな。それだけとは限らぬがの」
辰之助が言うと、朝倉は項垂れた。
「あぁぁ、最近。凄い事件に巻き込まれても、全然記事に出来ないのばっかだよぉ…」
畳に寝転がりながら、朝倉は愚痴を零した。
「お前さん、新聞記者にでもなるんか?」
辰之助が言うと、朝倉は「ブブー!」と頬を膨らませた。
「私はジャーナリストなのよ!事件を追っては記事にして、皆に伝える誇り高き仕事なのよ!…なのに、なんか、記事にしていい事件としちゃいけない事
件って考えちゃうと…。全然駄目なんだぁ。人の気持ちとか考えちゃうとさぁ」
朝倉が言うと、辰之助は優しく笑った。
「ホッホッホ。いい事じゃて。迷え!若者よ。それは、お主達若者だけに許された特権じゃ!…儂みたいに、歳を取ると、悩む事も、悩む時間も無くなって
しまうんじゃ。老い先短き身から言えるのは、それだけじゃよ。お主が、そのじゃーなりすと?に、なると言うなら。人を笑顔に出来る様頑張りなさい。その 悩みは、決してマイナスにはならんよ。若者に許された特権を、存分に振るいなさい。そして、もしも壁にぶつかって、自分ではどうしようも無くなったら。 また、ここに来なさい。老体のこの身でも、お主にアドバイスを与えるくらいは出来よう」
辰之助はそう言うと、朝倉の頭を撫でた。
それを、「はみゅ」と声を洩らしながら、朝倉は喉を鳴らして満喫した。
「ホッホッホ。まるで、猫の様じゃな。さぁて、そろそろ夜も遅い。そろそろ帰りなさい。また、茶を飲みに来てくれるかい?」
辰之助に言われて、朝倉は立ち上がると、「もっちろん!」と言って玄関に向かった。
そして、玄関から出ようとすると、辰之助が包みを朝倉に渡した。
「これは、儂の家内が作った御萩なんじゃ。寮の部屋に戻ったら食べなされ」
「ありがとう!じゃあね!お爺ちゃん!」
そう言うと、朝倉は走り去って行った。
その姿を、微笑みながら見守り、辰之助は朝倉の姿が見えなくなると、空を仰いだ。
そこには、満天の星空が広がり、辰之助は感傷に浸った。
「時の流れは…速いのう」
そう言って、辰之助は家に戻って行った。
そして、家に入る前に、もう一度朝倉の去った方向を見て、呟いた。
「信玄はあの娘にアレを託したか…。まぁ、儂もアレを解読したんじゃからな。同罪か…。朝倉…。その姓の者がこの学園に入学したのは…はたまた偶
然なのじゃろうか…。やはり、あの娘は…」
そう言うと、辰之助は玄関の扉を閉めた…。
イルゼが寮に戻ると、エヴァンジェリンの雷が落ちた。
「全く!泊まるなら連絡をしろ!心配したではないか!」
エヴァンジェリンのお説教は、イルゼが帰って来てから何時間も続いていた。
そして、イルゼは涙を溢れさせ、木乃香はアワアワと寝室で事の成り行きを見守っている。
「ごめ…ごめんなざい…」
「謝っても駄目だ!確かに、自主性も尊重すべきだとは思う!だがな、子供だけで外泊などして、もしもの事があったらどうする!危ない事はしないと言う
約束はもう忘れたのか!!」
「ごめんなさい…」
「大体だ!!お前は……」
「…………」
「…………」
それから、更に何時間もエヴァンジェリンのお説教が続く中、部屋のチャイムが鳴った。
「ん?客か」
そう言うと、エヴァンジェリンはイルゼに「正座していろ!」と厳命して玄関に向かった。
ちなみに、最近はデフォルトになってきた大人の姿は幻術固定の魔具で固定している。
最近になって、魔法薬で身長や胸を大きく出来ないか?などの研究もしているが、近右衛門が時間があればさよとデートしているので、自分だけで研究
しなくてはならず、思う様に進んでいなかった。
そして、エヴァンジェリンが玄関の扉を開くと、そこには朝倉が居た。
「あ、エヴァンジェリンさん!実は龍宮神社の宮司さんから御萩…を…」
朝倉はニコヤカにエヴァンジェリンに御萩のお裾分けをしようと口を開くと、その口はエヴァンジェリンの怒りのオーラで固まった。
そして、エヴァンジェリンは朝倉を部屋に連れ込むと、イルゼの隣に座らせた。
そして、お説教は、それから夜が明けるまで続くのだった…。
![]() |