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第76話『戦明け』
イルゼが眼を覚ますと、目の前にフェイの顔があった。
「ッ―!?」
言葉が出ないほど驚いていると、フェイが突然イルゼに抱きついてきた。
「フェ、フェイ?」
突然抱きつかれて、イルゼが困惑していると、フェイが肩を震わせているのに気が付いた。
「どうしたんだ?」
イルゼが首を捻りながら、とにかく泣き止ませようと頭を優しく撫でながら聞くと、フェイが顔を上げた。
すると、フェイの顔は涙と鼻水で凄い状態になっていた。
――ふ、服に鼻水が…。
イルゼは苦笑いしながらポケットを漁ったが、服が変わっていてポケットに何も入っていなかった。
「えっと…、おっ!あったあった」
イルゼが首を回すと、近くの机にティッシュの箱があり、そこから数枚取ると、フェイの鼻を拭った。
「んで?どうしたんだよ一体?怖い夢でも見たのか?」
イルゼが聞くと、フェイは何故か睨む様にイルゼを見た。
「あれ?」
「ねえ、イルゼ…」
「な…んでしょうか?」
言い知れない迫力があり、イルゼはつい畏まってしまった。
「皆、心配してたんだよ?み、三日も起きてくれないから…本当に不安で…」
だが、すぐにフェイの顔はクシャクシャな泣き顔に戻ってしまった。
だが、イルゼはそれよりもフェイの言葉が引っ掛かった。
「み、三日!?俺ってば、そんなに寝てたのか!?」
「そう…だよ!全然、起きなくて、このまま起きないかもって…」
「な、なぁ、何があったんだ?何か、記憶が混乱しててさ」
イルゼが聞くと、フェイは大きく鼻をティッシュかむと何度も深呼吸をして、心を落ち着かせた。
そして、目尻に再び浮かんだ雫を指で取ると、口を開いた。
「あのね…。三日前に、三郎丸さん達が行方不明になったのを覚えてる?」
「えっと…」
フェイに言われて、イルゼは記憶を探った。
そうして、ようやく色々と思い出して来た。
「ああ、覚えてるよ」
「それでね、和美ちゃんが探しに行っちゃったの。それを、イルゼと木乃香ちゃんが探しに行って…」
「ああ…」
フェイの言葉に相槌を打ちながら、イルゼは自分の心臓が痛いほど鳴っているのに気が付いた。
「それで…?」
イルゼは喉がカラカラに渇いているのに気が付いた。
もし、この後に続く言葉が、ヤタガラモンとサングルゥモンとの戦いの顛末だったら、フェイは自分をどう思うんだろうか、と不安になった。
だが、フェイの口から出たのは予想とは全く違った。
「うん…。和美ちゃんはね、この村の森の主様に捧げる為の生贄にされそうになってたんだって」
「生贄?」
イルゼは聞き慣れない単語に、聞き返すと、フェイは答えた。
「昔からなんだって。この村の人達は森の主様に生贄を捧げる慣わしがあったんだって」
「なぁ、生贄って何なんだ?」
フェイの言葉を遮って、イルゼは聞いた。
「えっと…。僕もあまり知らないんだけどね。昔から、人の手に負えない存在。天災なんかを鎮めるために、神様やそれに近い存在に、人間を捧げるの」
フェイの説明は拙いが、それでも何となく理解出来た。
「それで?」
「それでね、三郎丸さんと、その仲間の人も生贄にされそうだったの。それをね、イルゼと木乃香ちゃんが助けたんだって。そうしたら、森の主様が怒って
しまって、あの日に生贄を捧げに行った人は…。それに、湖も干上がってしまって、森もボロボロになっちゃったの。僕…イルゼに森の主様が呪いを掛け ちゃったのかもって…それで…」
そのまま、フェイはポロポロと涙を流して肩を振るわせた。
「だ、大丈夫だって。俺はここに居て、お前と話してるだろ。ったく、しょうがねえな」
そう言うと、イルゼは頭を掻きながらフェイを抱き寄せた。
「落ち着くまでこうしててやっからさ。安心しろって」
イルゼの胸に顔を当てながら、フェイはくぐもった声で「うん」と言って、そのまま泣き続けた。
そうして、しばらくするとフェイが泣き疲れたのか、寝息を立て始めると、イルゼは寝ていた布団をフェイに明け渡すと、立ち上がって体を伸ばした。
すると、体に力が漲っている感覚を覚えた。
――なんだ?
イルゼは首を捻ると、「寝過ぎだな」と自己完結をして、辺りを見渡した。
イルゼが眠っていたのは守森荘の部屋だった。
イルゼはフェイの鼻水がベッタリと付いてしまった服を脱いで、自分の鞄に入っている別のシャツに着替えた。
そして、フェイを一人にするのも気が引けたので、しばらくフェイの隣で座り込んだ。
のんびりとした時間が流れる。
外からは雀の鳴き声が聞こえる。
そして、大きく溜息を吐いた。
「はぁ、俺、生きてるんだな」
自分の両手を見ながら、イルゼは言った。
そして、ヤタガラモンに止めを刺した時の感触がフラッシュバックとなって襲い掛かった。
「グ…」
歯を食い縛りながら、イルゼは眩暈がするのを必死に堪えた。
――殺した…。
今度は本当に殺した。
相手の命を奪った。
何も、自分がいつも食べている食事が何なのかは理解している。
だが、自分の手で、相手の命を本当に奪い取ってしまったのは、これが始めてだ。
人から見れば、化け物退治。
だが、イルゼにしてみれば、それは同じ世界の仲間を殺した事に他ならない。
だが、木乃香達に、気持ちを打ち明ける訳にはいかない。
木乃香に話せば、木乃香も同じ思いを持ってしまうかもしれない。
フェイ達には、話す事は出来ない。
自分の手で、ヤタガラモンの口の中に刃を放った。
殺害。
感触が残っている。
自分のした行為で、相手の命が停止したのだ。
デジモンだから、デジタマに還ったかもしれない。
だが、それでもイルゼは押し潰されそうになるのを耐えるのに必死だった。
静かな部屋で、イルゼのすすり泣く声が響く。
フェイが眠っているのが幸いだった。
イルゼはそれから長い間、服の袖で目元を覆っていた。
しばらくすると、部屋の扉が開いた。
イルゼは涙を拭っている。
入って来たのは、エヴァンジェリンや学達だった。
「イルゼ!」
入って来て直ぐに、学が駆け出して来た。
「起きたですか!?」
夕映も慌てて学に続く。
その後ろで目を見開いて木乃香と朝倉も直ぐに続いた。
最後に、エヴァンジェリンも胸を撫で下ろした。
「イルゼ!起きたんだね。あれ?どうして、フェイが布団で寝てるの?」
学が聞くと、イルゼは苦笑した。
「フェイに泣かれてな。そのまま。悪かったな、心配させて」
すると、学は笑った。
「全然、心配なんかしてなかったよ。起きるって分かってたしね。でも、ちょっと遅かったんじゃないかい?」
嘘だと簡単に分かる。
学の目尻に、零れそうなくらい雫が溢れていたから。
だが、イルゼはニシシと笑った。
「悪いな、ちょっと道草くってた」
「ハハ…、仕方ないな」
そう言うと、学は大きく息を吐くと、フェイに近寄った。
「代わりばんこで看病してたんだよ?皆心配してた」
学の言葉に、イルゼが木乃香や朝倉、夕映に顔を向けた。
「体は、何ともないですか?」
夕映が心配そうに聞いた。
「ああ、ピンピンしてる。むしろ、寝過ぎて体力が余ってるくらいだよ」
「そう…ですか…。イルゼ…」
「なんだ?」
「…いいえ。何でもないですよ」
「そっか…」
そう言うと、夕映は視線を後ろの木乃香と朝倉に向けた。
木乃香と朝倉は、今にも泣きそうだった。
だけど、必死に我慢している様だった。
そして、木乃香が黙ってイルゼに抱きついた。
何も言葉が出せなかったのだ。
ただ、イルゼも黙って木乃香の髪を撫でた。
それしか、出来る事が見つからなかったから。
着替えたばかりの服の、木乃香が顔を付けている場所が冷たくなっている。
ただ、イルゼはずっと木乃香の髪を撫でて、抱き締めるだけだった。
「………」
誰も、何も声を出さない。
静まり返った部屋で、木乃香のすすり泣く声だけが、嫌でも耳に入った。
それから、しばらくすると木乃香の体が重くなった。
そして、スゥースゥーと小さな寝息が聞こえてきた。
「寝ちゃったね…」
朝倉が言うと、イルゼは「そうだな」と言った。
そして、イルゼはゆっくりと、木乃香をフェイの布団に入れた。
二人とも、目元が赤くなっている。
そして、それでも安らかに眠っている。
それから、学と夕映が立ち上がった。
「僕達、ちょっと外に行くね。…イルゼ」
「何だ?」
「もしね…。話してくれる気になったら…、教えてね」
そう言って、二人は部屋を出た。
それで理解した。
二人は、知ってしまったと。
当然だろう。
あんなに派手な戦いだ。
少なくとも、村からヤタガラモンが見えた筈だ。
そして、そんな生き物と戦って生き残るのは、異常だと、分かっているのだろう。
それを、話してくれるまで待ってる。
そう言ってくれた。
イルゼは、堪らなく二人に感謝した。
普通なら、問いただして、気味悪がって。
それが普通だ。
だが、それでも二人は何も言わずに部屋を出て行った。
それが、イルゼの心を少し軽くした。
そして、エヴァンジェリンも部屋を出た。
「私も少し外に居る。色々と用があるからな」
そう言って、出て行った。
残されたのは、眠っている二人と、イルゼと朝倉だけだった。
二人の眠りは深い。
大声を出しても起きないんじゃないか?と、思わせるほどに。
そう考えていると、朝倉は苦笑した。
「二人とも、ずっと長く看病してたからね。安心して寝ちゃったから。多分、しばらくは起きないよ」
「そっか…」
朝倉の言葉に、イルゼはそれだけ言うと、朝倉の顔を見た。
その顔は涙を必死に抑えていた。
「…………………」
長い間、イルゼも朝倉も何も喋らなかった。
イルゼは、只朝倉の言葉を待ち、朝倉は喉から必死に声を出そうと頑張っている。
そして、小さく口を開いた。
「………………………ごめんなさい」
口を開けてからも、言葉が出せず、ようやく小さな声でそう言った。
「………」
イルゼは何も言わなかった。
只、黙って朝倉を見詰めた。
「私…、勝手な事して…。怖かった…」
イルゼは、あの時を思い出していた。
イルゼや木乃香の様に、闇に対して耐性がある訳でもない女の子が、あんなに暗い森に入って、捕まって、目の前で恐ろしい事が起きたのだ。
怖くて当たり前だろう。
そして、朝倉は必死にポツリポツリと言葉を振り絞った。
「ありが…とう。助けてくれて…」
朝倉は頭を下げた。
そして、イルゼはニッと笑った。
「らしくねえぜ。そんなしおらしい朝倉なんてよ」
イルゼはそう言った。
すると、朝倉はキョトンとした。
それから、不満気にイルゼを見た。
「こんなに可愛い女の子が頭を下げて言う言葉がそれ?」
「へっ、頭を下げられる様な事はしてねえからよ。只、気に入らなかったから行った。それだけだよ」
イルゼが言うと、朝倉は溜息を吐いた。
「イルゼらしいって言えばらしいのかな?」
朝倉が言うと、イルゼは肩を竦めた。
「さあな。でもよ、我慢する必要は無いと思うぜ?」
イルゼが言うと、朝倉は首を振った。
「これでもね、エヴァンジェリンさんに思いっきり抱きついて泣きまくった後なんだ。ちょっと、怖かったけどね」
「あん?」
「だって、イルゼが寝込んだの、私のせいじゃん。だから…」
「気にすんなって。それに、悪いのはお前じゃなくて、あの変な奴等だろ」
イルゼが言うと、朝倉は「そうだね…」と言った。
「それに…あのカラスもね」
その瞬間、イルゼは目を見開いた。
「朝倉…お前」
「知ってる。見てたから…。その事、エヴァンジェリンさんに話したの。って言うか、私は前からちょっと知ってたからね」
「知ってた?」
「そっ!この世には不思議な事がある。それに、エヴァンジェリンさんもそんな普通じゃない人なんだって。それにね。あの時、見ちゃったんだ。イルゼが
…進化だっけ?してる姿や、木乃香が不思議な事をしているの。それをね、全部話したの。それが責任だって。記憶を消されても良いって思った。だって さ、よくあるじゃん?知ってはいけない事を知った人間は忘れさせられるか、殺されちゃうかってさ」
「お、俺は別に!それに、ばあちゃんだって!!」
「分かってる。それに、私はここに居る。教えてくれたよ。エヴァンジェリンさん。後悔するぞって言われて。それでも、私は知っちゃったから。絶対に、誰に
も言わないって約束したの。ギアスって言うのを掛けてね」
「ギアス?」
イルゼが眉を顰めると、朝倉は驚いた。
「知らないの?」
「あ、ああ。話を聞いたなら…俺の正体も知ったんだろ?」
イルゼは、突然怖くなった。
木乃香は、抱き締めてくれたサングルゥモンの姿。
それを見て、朝倉はどう思うだろう、と。
朝倉とは、特別親しいと言える程でもない。
本当に、友人と呼ぶ程度の仲だ。
木乃香の様に、家族と言う訳では無い。
だが、朝倉は気にした風もなく頷いた。
「聞いたよ。そっか、イルゼはそう言うのを習えないんだっけ。ギアスって言うのはね…」
朝倉が言おうとした言葉を、イルゼが遮った。
「気持ち悪くねえのか?」
その言葉に、朝倉は「はい?」と呆気に取られたように固まった。
「だ、だってよ!人間じゃねえんだし…。あんな、姿なって…」
イルゼが言うのを、朝倉はジッと見つめた。
そして、クスッと笑った。
「馬鹿だね。イルゼ、私もだけど、多分フェイや学や夕映や皆だって、気にしたりしないよ。分かってるでしょ?そんな事。それに、わんちゃんのイルゼも
中々可愛かったよ」
「わ、わんちゃん!?」
朝倉の言葉に、納得しかけて慌てて聞き返した。
「わんちゃん。それも、空飛ぶわんちゃん」
「わ、わんちゃんって言うな!サングルゥモンって名前なんだから!」
イルゼが言うと、朝倉は悪戯っぽく笑った。
「ニシシ。可愛かったよ。わんちゃん」
「お、お前な…」
イルゼは疲れた様に肩を落とすと、朝倉は苦笑した。
「少なくとも、気持ち悪いとか、怖いとか思う訳無いよ。友達なんだしさ。もうちょっと信用してもいいんじゃない?」
朝倉が言うと、イルゼは慌てた様に言った。
「べ、別に信用して無い訳じゃ!」
「だったら!そんな小鹿みたいに震えないでよね」
笑いながら言う朝倉に、イルゼは不貞腐れながら「あいあい」と空返事をした。
それから、朝倉は口を開いた。
「話を戻すね?ギアスって言うのは、簡単に言うと制約なのよ。私の場合は、イルゼの事や、エヴァンジェリンさんの事、魔法の事。そう言うのを、誰にも
話さないって誓ったの。破ったら、エヴァンジェリンさん曰く、大人になれば分かるとんでも無い事が起きる…って事らしいよ」
「とんでも無い事?」
「さぁ?聞かなかったしね」
朝倉が言うと、イルゼは「おいおい」と心配そうに見た。
だが、朝倉は苦笑した。
「別に、死んだりはしないよ。それにね。私、ちゃんとプライドって言うのを持ってるの。ジャーナリストとしてね。記事にして良い事かどうかなんて、判断出
来ないようじゃジャーナリスト失格。絶対に、私は誰にも言わない。まぁ、ちょっとだけ魔法が気になるか?って聞かれたら否定出来ないけど。自分で探す つもり」
「探すって?」
「自分で魔法を探求するつもり。別に、記事にする気は無いの。でもね、私は好奇心をそのままには出来ないのよ。エヴァンジェリンさんにも、教えてとは
言わなかった。だって、それって反則だし。私には資格がないもん。だから、自分の手で魔法を見つける。それでね、今日助けてくれた借りを木乃香とイ ルゼに絶対返す。いらないって言っても無駄だからね」
ニッと笑って、言う朝倉に、イルゼは疲れた様に笑った。
「なんか…、朝倉なら本気で自分の魔法を見つけ出しそうだな」
「あったりまえ!」
そう言うと、二人は笑い合った。
それから、しばらくすると部屋にエヴァンジェリンが戻って来た。
すると、朝倉はニッと笑って外に出た。
「それじゃあ。私も外に行ってるね」
そう言って、朝倉は部屋を出て行った。
エヴァンジェリンに一礼して。
「おはよう」
エヴァンジェリンが口を開くと、イルゼはビクッとした。
そのあまりの口調の冷たさにだ。
「ばあちゃん」
イルゼが顔を上げると、予想してなかった表情を、エヴァンジェリンが浮べていた。
怒られると思った。
だが、その顔は必死に涙を抑えている姿だった。
「ばあ…ちゃん?」
「イルゼ…私はな…」
そう言うと、エヴァンジェリンは大きく息を吸い込んだ。
「お前達を本当に…自分の子供の様に思ってしまったんだ…」
「ばあちゃん…?」
エヴァンジェリンは、震えた声で言った。
そして、イルゼはそんなエヴァンジェリンを見上げた。
「本当に…。子供など産んだ事も無い私が…。木乃香には、両親が居る。イルゼにだって、ジジモンやババモンと言う両親が居る。分かっているのに…
私は、お前達がばあちゃんと、呼んでくれる度に嬉しかったのだ」
そう言うと、エヴァンジェリンは寂しそうに笑った。
「こんなのは、お前達にとっては迷惑かもしれんがな…。愛しているのだ。本当に、二人共。だからな…、我侭を一つ聞いてくれ…」
「………」
エヴァンジェリンの言葉に、イルゼは何も言えなかった。
ただ、呆然としていた。
「ただ…分かってくれ。お前や木乃香がいなくなったら、残された者はどれだけ辛いかをな」
静かに、諭す様にエヴァンジェリンは言うと、イルゼは涙が溢れて来てしまった。
「ごめ…、ごめんなさい…」
イルゼは声を震わせて泣き出した。
色々な感情がグチャグチャに入り混じって。
色々な不安や恐怖、それに寂しさが込み上げてきたのだ。
それを見ると、エヴァンジェリンはイルゼの体を抱き締めた。
「泣け泣け。まだ子供なんだからな。好きなだけ泣け。怖かったよな。当たり前だよな。よく木乃香を護ったじゃないか。偉いぞ」
そう言いながら、エヴァンジェリンはイルゼの頭を優しく撫でた。
長い間そうしていると、イルゼは泣き止んでエヴァンジェリンから離れた。
「ありがと…」
イルゼはエヴァンジェリンの顔を見上げながら言った。
ただ、自分の気持ちを言葉にしようと必死だった。
「俺、俺さ!ばあちゃんの事、本当のおふくろみたいだって思ってるんだ!」
イルゼは言った。
「ッ―!」
すると、エヴァンジェリンは目を丸くすると、目尻に雫を湛えて微笑んだ。
「そうか…。私がおふくろか…」
エヴァンジェリンが反芻する様に言うと、突然別の声が聞こえた。
「うちも、おばあちゃんの事…お母様みたいに思ってるえ」
躊躇いがちに、木乃香は言った。
その表情がどうしてか悲しげで、イルゼにはどうして木乃香がそんな表情をするのか分からなかった。
だが、エヴァンジェリンは察したようだった。
そして、体を起こした木乃香に近づいて、優しく頭を撫でた。
そして、愛おしそうに見ながら首を振った。
「気持ちは嬉しいよ。でもな、お前には母が居るだろう?それなあ…」
エヴァンジェリンが言い掛けて、木乃香は首を振った。
「いないんよ」
「え?」
エヴァンジェリンは予想していなかった言葉だった。
「な、何を言って…。詠春の妻が死んだなんて聞いていないぞ!?」
そう言って、エヴァンジェリンは口を閉ざした。
自分が誰の前で何を言ったのかを思い出して。
「す…すまん…」
すると、木乃香は首を振った。
「ちゃうんよ。うちな…お母様の顔を覚えとらんの…。お父様は、お母さんは遠くでお仕事をしてる言うんや。せやから…」
「木乃香…」
木乃香の言葉に、エヴァンジェリンは呟く様に声を掛けた。
すると、木乃香は真っ直ぐとエヴァンジェリンを見つめた。
「お母様ってこんな感じなんかな?って、最初はそう思ってたんよ。だけど…」
そう言うと、木乃香は目尻に涙を湛えた。
「今は…違うんや!ほんまに…おばあちゃんの事大好きなんや!本当に、うちの…お母様みたいに…思って…」
木乃香は、それ以上何も言わなかった。
言葉が出なかった。
そして、エヴァンジェリンも目を見開くばかりで、何も言えなかった。
そして、どれだけの時間が経ったのだろうか、エヴァンジェリンは小さく「ありがとう…」と、呟いた。
すると、木乃香は首を振った。
「それとね…、フェイも起きてるやろ?」
「へ?」
「な!?」
木乃香の言葉に、フェイの体が僅かに動いた。
そして、イルゼとエヴァンジェリンは気付いていなかったのか、驚いた様にフェイを凝視した。
すると、フェイが申し訳なさそうに起きた。
「ごめんなさい…。聞いちゃいけないって分かってたのに…」
「い…何時から…!?」
イルゼは目を見開きながら呆然として聞いた。
「その…エヴァンジェリンさんにイルゼが抱き締めて貰ってる時に…」
「泣き声で起きてしまった訳か…」
フェイの言葉に、エヴァンジェリンは納得がいった。
すると、イルゼは顔を紅くして顔を背けた。
さすがに、少し恥しかったのだ。
だが、その行動が、フェイにはイルゼが怒って見えた。
それで、フェイは瞳に涙を溢れさせた。
「ごめ…ごめんなさい…。僕…」
すると、突然木乃香がフェイを背中から抱き締めた。
「フェイ…羨ましいんやろ?」
「え?」
突然の木乃香の言葉に、フェイの思考は停止した。
そして、イルゼとエヴァンジェリンも訳が判らなかった。
「イルゼが、おばあちゃんの胸で泣かせて貰ってる時、聞こえてたんよ?「いいなあ…お母さん」って、小さな声で…」
「ッ――!?ち、ちが…」
木乃香の言葉に、フェイは首を振った。
そして、顔を歪めて木乃香から離れ様としたが、木乃香はガッチリとフェイの首を抱き締めていたせいで動けなかった。
「お、おい、木乃香!」
さすがにやり過ぎだと思い、イルゼが木乃香に声を掛けると、木乃香はエヴァンジェリンに言った。
「おばあちゃん。おばあちゃんの子供、もう一人居てもええ?」
「へ?」
「ッ――!」
「………」
木乃香の言葉に、フェイは呆気に取られた様に固まり、イルゼとエヴァンジェリンはようやく木乃香の意図が理解出来た。
「だ、駄目だよ!僕は…そんな資格無いし。それに…」
フェイが、着ている服がはだけるのも構わずに首を振って、木乃香から離れ様とすると、エヴァンジェリンは言った。
「木乃香…駄目だ」
その言葉に、フェイは安堵したような、寂しいような感情に襲われながらも暴れるのを止めて俯いた。
そして、木乃香は悲しそうにエヴァンジェリンを見た。
イルゼも、何を言えばいいか分からなかった。
すると、エヴァンジェリンは言った。
「私は、お前達の母親にはなれない。…でもな」
そう言うと、エヴァンジェリンはフェイの頭を優しく撫でた。
「代わりにはなれると思う…まだまだ駆け出しだがな。甘えたい時に甘えて欲しい。悩みが在ったら相談して欲しい、寂しかったら私の胸で泣いて欲しい。
フェイ、私は母親にはなれない。でも、それでもいいなら。私に甘えに来てくれないか?何時でも」
そう言うと、エヴァンジェリンはニッコリと笑った。
「何なら、フェイも私の事をおばあちゃんって呼んでもいいぞ?まぁ、私としてはママとかって呼んで貰えたら嬉しいんだけどな」
そう言った。
すると、木乃香とイルゼの顔には喜色が浮かび、フェイはしばらく呆然としていると、エヴァンジェリンの言葉の意味を理解して、涙を溢れさせた。
木乃香達は知っているから。
フェイには親が居ない。
それに、義理の両親ともうまくいっていないのを。
そして、フェイにとって、エヴァンジェリンは本当に優しい大人の人だった。
母親自体が分からないフェイにとって、眩しい存在だった。
その人が、自分に手を伸ばしてくれた事が信じられなかった。
だが、フェイは首を振った。
「駄目なの…」
「え?」
それに口を開いたのはイルゼだった。
「駄目って?」
「それは……」
すると、フェイは怯えた様にイルゼから離れようとした。
だが、背中から木乃香に抱き締められたままだったので動けなかった。
「フェイ?」
イルゼが聞くと、フェイは囁く様に、ポツリポツリと語り始めた。
「僕は…悪い子だから、甘えちゃいけないって…」
「ッ――!?」
フェイが洩らした言葉に、イルゼ達は固まった。
そして、エヴァンジェリンは勤めて優しい言葉を選んだ。
「ど、どういう事だ?」
「おじさんとおばさんが言うの…。時々、僕の周りでおかしな事が起きるって…。それは悪い事だって…。化け物で、悪い子だから近づくなって…」
その言葉に、イルゼは瞳孔が開きかけた。
木乃香も、予想外の言葉に目を丸くした。
その内心は、もし真実なら許せない、と思った。
そして、エヴァンジェリンは感情を出さない様に、優しく問い掛けた。
「おかしな事…とは?」
「分からないの…。時々、辛い事があると、眩暈がして…それで…気が付いたら周りに切り傷が幾つも出来てるの…。おばさんが言ってたの…。小さい
時に、それで…亮君を怪我させちゃったって」
「亮!?」
フェイの話で、イルゼは突然の名前に驚いた。
「なんで…亮の名前が…」
「亮は…僕の居候してる家の子なの…」
「なっ!?」
その言葉に、イルゼは入学式の日を思い出した。
すると、エヴァンジェリンはフェイの体を抱き寄せた。
「え?」
フェイが驚いた様に声を上げると、エヴァンジェリンはフェイの頭を優しく撫でた。
それが気持ち良くて、フェイは目を細めた。
するとエヴァンジェリンが言った。
「いいんだぞ」
「え?」
エヴァンジェリンの言葉に、フェイはキョトンとした。
すると、エヴァンジェリンは優しく笑った。
「悪い子なんかじゃないさ。フェイ、私はまだ会ってから日は浅い、それでもお前が良い子だって、分かる。良いんだ。甘えたい時に、甘えに来い。私はち
ょくちょくイルゼ達の部屋に行くからな」
エヴァンジェリンが言うと、フェイはエヴァンジェリンの胸に顔を埋めて肩を震わせた。
それから更に時間が経って日が傾きかけた頃、フェイも泣き止んだ。
そして、木乃香がイルゼとフェイに耳打ちをした。
「なぁなぁ、おばあちゃん。さっき、ママって呼ばれたいって言ってたやん?」
「お、おう…」
「うん」
イルゼとフェイが頷くと、木乃香が提案した。
「せやから、ママって呼んでみいへん?なんや、こそばゆいけどおばあちゃんが喜んでくれるんやったら…」
「マ…ママか…、ちょっと恥いけど…。俺はいいぜ」
「僕もいいよ」
そう言うと、三人が突然内緒話をしだしたのに困惑しているエヴァンジェリンに顔を向けた。
そして、丁度部屋の扉が開いた瞬間、三人で声を合わせた。
「えっとさ…」
とイルゼ。
「あんな…」
と木乃香。
「えっと…」
と、フェイが言うと、三人は揃って言った。
「「「ママ!」」」
その瞬間、エヴァンジェリンの中で何かが爆発した。
「ッ―――――!?」
すると、エヴァンジェリンの顔は赤面した。
そして、口をワナワナと震わせ、素晴らしい笑顔になった。
「ママ…私が…ママ…」
噛み締めるように、何度もママと言う単語を反芻するエヴァンジェリンを、丁度入って来た学、夕映、朝倉はドアの前で固まってしまった。
「え?え?え?どんな状況??」
学の言葉が、虚しく部屋に響いたのだった。
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