第56話『君ヲ思フ』


それから一週間が経過した。
手塚は打ち合わせの翌日に『ハロウィン・タウン』に狩人の衣装を追加予約しに行った。
それから少しして台本が完成し、月曜日になって配られた。
麻帆良祭まで残り二週間を切り、学園内もかなり賑やかになってきていた。
出店もかなり出て来て、今週からは授業も毎日午前中授業に短縮される。
イルゼのクラスでも、台本を見ながらの練習が始まっていた。
ミス研の準備は先輩達がやって置くから自分のクラスの事に集中するように輝夜に言われている。

基本的に内気なのは治っていないフェイは、練習がなかなか巧く行かなかった。
イルゼは演技が下手過ぎて手塚に叩かれる事がしょっちゅうだった。
木乃香の方も、赤頭巾の台詞は少ないが、出演時間が長いのでどこでどの台詞かが混乱する事がしばしばで、学校だけでなく寮でもエヴァンジェリンに
見て貰いながら練習する事もあった。
お昼休みや授業の合間の休みを全て練習に注ぎ込んで練習し、それからまた一週間が経った。
土日の魔法の修行もエヴァンジェリンが休みにして練習に当てた。
麻帆良祭が近づくに連れてエヴァンジェリンのテンションはどんどん上がって行き、桃子やさよと一緒に回る約束まで取り付けてカメラも新調した。

イルゼのクラスの劇は二日目のお昼の部の第一弾だ。
木乃香のクラスはその次だ。
ちなみに亜里沙のクラスはその次なので、二日目のお昼は初等部の『麻帆良第三劇場』に籠もる事に成る事になった。
ミス研の『ヤキソバ屋』は劇場前の一等地を輝夜が確保し、なんと図書館探検部の『クレープバー』のすぐ傍だった。

初等部は大学部の『麻帆良大工サークル』がボランティアで手伝いに来てくれる。
手塚が造って欲しい舞台装置や小人の家やお城の内装のイメージを言い、二日程度で完成させてくれる。
『麻帆良大工サークル』は麻帆良学園内でも最も巨大なサークル・部の一つだ。
巨大な工房が大学部エリアに存在し、そこには100人を優に越える人数のメンバーが在籍している。
元々、一部の建築学部の生徒がやっていたのだが、建築学部の生徒が増える度に入部希望者も増え、今では建築学部の生徒のほぼ全員が入部して
いる。
ボランティアや正式な仕事も請け負う事があり、一つの会社の様にすらなっている。

そして、日付は麻帆良祭目前に迫った。
衣装も機材も全てが揃い、どこを見てもお祭り騒ぎだ。
何度か台本を変更したり、役の変更もあったが、それでも麻帆良祭に向けてちゃくちゃくと全員の気持ちは固まっていった。
残り数日と言う事もあり、練習はラストスパートでお昼から夜まで何度も続けられた。

そして、麻帆良祭前日がやって来て、いよいよ衣装を着て、機材を使っての本格的な最後の練習をする事になった。
場所は、手塚が一日だけリハーサル用に予約が取れた麻帆良第三劇場の大ホールだ。
機材は既に運び込まれている。
そして、衣装部屋でそれぞれが着替えた。
イルゼの衣装は見た目と違ってそこまで複雑ではないので一番に舞台の上に上がった。

「うおおお!なんかいいな!!」

舞台の上ではしゃいでいる王子様に、その後に来た王様が一喝した。

「イルゼ、あんまりはしゃいで舞台装置を壊すなよ?」

「わぁってるって!にしても、いい気分だなぁ」

手塚の言葉を耳に入れながらも、イルゼは舞台から見える客席の壮観さに感動していた。
すると、機材の準備をしていた学がアハハと笑いながら口を開いた。

「そんな事言ってもお客さんが入ったら緊張しちゃうんじゃないのぉ?」

すると、イルゼは憮然としながら唇を尖らせた。

「そんな事ねぇよ!主役は俺だ!目立ちまくってやるぜ!!」

イルゼが大声で叫ぶと手塚もクツクツと笑った。

「その調子ならイルゼは心配ないな。全くもって主役にぴったりの性格だ。確り頼むぞ?」

「任せとけって!ばあちゃんやじいちゃん、さよ姉も見に来るらしいからな。恥かしいとこ見せらんねぇぜ」

イルゼが言うと、手塚が「ああ、あの学園長の秘書の人か」と言った。

「あの人ってどういう人なんだ?何か聞いてないか?」

手塚が聞くと、イルゼは首を捻った。
改めてどういう人かと聞かれても答えに困る。

「まぁ、じいちゃんの古い知り合いでさ。親や頼れる人も居ないからじいちゃんの所で働く事になったんだよ」

嘘は言っていない。
イルゼの言葉に手塚は「なるほどな」と納得したのか、もう聞くことは無かった。
しばらくイルゼが手塚、学と共に話していると次々に他の皆も着替えて舞台に上がってきた。
緑のローブの小人が七人、ロビンフットの様な羽付き帽子を被った緑服の狩人、白い着物を着ているのは鏡役の洞爺だ。
ナレーターの瀬尾も白いローブを着ている。
そして、それからしばらく待つと、今度は真っ黒なドレスの本人の髪と同じ色のカツラを被った由希と、輝夜の様なメイド服を着た慊人が来た。
ちなみに、慊人が着ているメイド服は輝夜の同様にシルク素材に滑らかな肌触りだ。
二人とも着慣れない服を鬱陶し気にしているが、どちらもまさしく美少女と呼べるほど可愛らしかった。

「これは…凄いな」

緑のローブを着ている小人役の一人の蘭丸が冷や汗を流しながら言った。

「やっべ、俺ちょっと扉開けちゃいそう…」

同じく小人役の夾が言い、手塚が叩いた。

「やめんか」

それから、しばらくしてフェイも来た。
フェイの衣装は瓶覗色を基調として僅かに白のレースがついた可愛いドレスだ。
栗色のフワフワした髪とパッチリとした零れそうなほど大きな瞳が相俟って、まさしくお人形の様だった。
それを見て一瞬だけ、イルゼは言い知れぬ感覚を覚えた。

「やっべ…。普通に可愛いと思っちった」

イルゼの言葉に、手塚と学は頷いた。

「否定出来ないね、あれは普通に可愛いと思うよ」

学が言い、手塚も「そうだな。慊人や由希もだが…」と感心したような声で言った。
それから、舞台の準備が整い、春達音響係りが音響室に、掌理達ライト係りが照明装置管理室にそれぞれスタンバイした。
そして、セリフのタイミングなんかを微妙に調整しながらも最後の通しで完璧となった。

「さぁ、明日から麻帆良祭が始まる」

劇場前で手塚が皆の前に出て言った。

「明後日のお昼が俺達の練習の成果を見せる時だ。だから!明日は思いっきり遊んで英気を養うように!以上!」

手塚がそう締めると皆で寮に戻って行った。
ついに、麻帆良祭が始まる。





漆黒の闇が支配する世界。
無数の鬼や悪魔が、今宵の麻帆良学園の結界境界を越えようとしている。
麻帆良学園は魔を呼び寄せる。
関西呪術協会の武闘派は、現在は近衛詠春によって完全に抑え込まれている。
サムライマスターとしての力を青山鶴子との修行によって取り戻した詠春は、その心もまた研ぎ澄まし、甘い考えをすべて排除した。
全ては愛すべき娘を思ってだ。
木乃香が魔法に関った。
それは、即ち『立派な魔法使い』や、西洋魔法使いに反感を持つ者にとってはどうしても欲しい人材となりえる。
当然だろう、極東最強の魔力は比喩ではない。
事実、最強と呼ばれたサウザンドマスター、闇の福音、麻帆良の学園長をも越える魔力を保有している木乃香は、紛れもなく最強なのだ。
そして、その才能も並とは到底並ぶ事無き破格の物だ。
全ての属性、つまりはこの世全ての精霊達が木乃香に力を貸してくれるのだ。
強靭な魂から編み出される最強の魔力と、世界からの寵愛。
そして、類稀たる魔力操作の緻密さ。
だが、その彼女に魔法を教えているのが闇の福音だと言う情報は容易く漏れ出してしまっていた。

魔を排斥する『教会』、悪を許さぬ『立派な魔法使い』、魔力タンクとしての価値を見る『外道』、木乃香を連れ戻して兵器に使いたい『武闘派の呪術師
達』。

木乃香を狙う存在は無数に存在する。
故に、詠春は自身の力で呪術師達を完全に抑え込む必要があったのだ。
そして、近右衛門の権力は魔法界でもかなりの力がある。
何故なら、歴戦の英傑であり、魔法世界の現在の平穏の礎は紛れもなく彼が作ったのだからだ。
二人の力によって、麻帆良学園に少なくとも『立派な魔法使い』と『武闘派の呪術師達』が攻め込まないようにはなっているのだ。
近右衛門の実力を知るのは老年の者だけとなった現代、それでも、彼の実力を知る者は彼を敵対させないように必死に下を抑えている。
麻帆良学園に攻め込むとは、それ即ち世界最強と呼ばれた魔法使い二人を敵に回す事に他ならないからだ。
エヴァンジェリンの存在は、看過出来るモノではないが、それを糾弾出来る者など存在しないのだ。
麻帆良の魔法先生達も、近右衛門の実力をピエモンとの戦いで知ってからはとても反対意見など出せなかった。
あの戦いを見て、それでも何か言えるとしたら、それは余程の愚か者か、それとも余程の自信家くらいだろう。

だが、それでも麻帆良学園を襲う愚か者は多い。
それほどまでに、麻帆良学園には魅力的な者、物、モノが溢れているのだ。
木乃香だけではない。
麻帆良学園には、少しでも魔法の才能がある子供が集まるようになっている。
何故なら、一般の家庭で生まれてしまった才ある子供は、善悪関係無く、魔に属する者にとっては涎が出る程都合の良い存在なのだ。
親から切り離しても、親には何も出来ず、簡単な呪文で子供も親も互いを他人の様に考えるようにさせられる。
魔法の恐ろしい所は、個人の火力などではない。
そんなものは科学技術でどうにでも出来るのだ。
それ以上に、心を操る力。
それこそが最も恐ろしい力なのだ。
人の思いを蹂躙する力。
その力を、魔法使いは善悪の区別無く使う。
それは、余程の外道で無い限り容認してしまう程浸透している。
誰かに魔法を見られたら忘れさせる。
簡単な事だ。
それでも、一人の人間が思ったナニカは、簡単に消し去られるのだ。
魔法使いにとって、人の思いは重要ではない。
大局を見据えて、世界が滅ばないようにするのが仕事だ。
そして、魔法使いの仕事とは、魔法使いを狩る仕事でもある。
魔法使いと言うアドバンテージを持てば、『立派な魔法使い』を目指す者だけでは無くなる。

二次成長を終えた男ならば、自分の欲情の捌け口を適当に見繕う者も少なくない。
それを罰する事は不可能なのだ。
被害者は記憶を消され、処女であっても処女幕を修復すればいいだけの話なのだ。
家族や友人から存在を消して、自分の奴隷にする事も容易い。
ある程度以上の結界を張るだけでいいのだ。
一般人では到底出る事も、助けを呼ぶ事も出来なくなる。
そして、誰にも助けてもらう事も出来ない。
余程のヘマをしなければ、それらを罰せられる事も無いのだ。
魔法使いが魔法使いを罰するのは、魔法世界に影響が出る場合だけだ。
奴隷に関して言えば、魔法世界では普通に奴隷の売り買いがされている。
人として扱う者もいれば、家畜以下に扱う者も居る。
実験のモルモットにする者も居るし、自分の趣味に使う者も居る。

そして、一般人の中で生まれた子供は、その力を利用される可能性がとても高いのだ。
そんな彼らを助ける為に、魔法世界の有志の手によって、一般人の中で魔法の力が使われた時、それが分かるシステムが作られたのだ。
動物と話をしたり、奇妙奇天烈な力を持つ子供達に招待状を送り、麻帆良学園に入学するように仕向けるのだ。
その中で、魔法に関ったならば、その魔法を鍛える機会を与える。
己の身を護れるように。
と言っても、無理に教える事は無い。
何故なら、被害に合うのは殆どが子供だからだ。
寮性で、人との結びつきが強くなった者は安易に攫えばどこかで足が付く。
故に、麻帆良学園を卒業すれば、狙われる事はかなり少なくなるのだ。

だが、逆に言えば、麻帆良学園にはそう言った才ある者が多く集まっているのだ。
故に、子供達や、貴重品を奪おうと魔法使い達は侵入してくるのだ。

そして、今宵も愚かにも麻帆良学園に侵入しようとする者達が居るのだった。
だが、彼らが結界を越える事は決して出来ない。
あまりにも恐ろしい事だ。
夜天の上空何百メートルもの彼方に、この世で究極の化け物が存在しているのだ。
近衛近右衛門。
彼の持つ『六通完通』は、仙人にのみ許された究極の感覚だ。
例え、どれだけ希薄な存在であろうとも見つけ出し、どれだけの距離があろうと視認し、あらゆる音を聞き分け、相手の考えを暴き出し、過去を見る事す
ら可能だ。
上空から、全ての悪意を曝け出させ、回避不能の光の転移魔法を使った零距離攻撃。
仙人の力は多岐に渡る。

究極の感覚である『六通完通』を持ち、大気に満ちるマナを取り込むことが出来、比喩では無く完全に気配を消す事ができる。
咸卦法も呼吸をするかのように容易く、やろうと思えば常時発動が可能だ。
神器と呼ばれる武装を使い、仙術と呼ばれる究極の戦闘方を持ち、空中を自在に駆け、翔ける。
自分の身体を自在に操り、大きさも重量すらも思いのままに出来、指を指すだけで敵を動けなくする。
この世の法則すら曲げる究極の符である『五嶽真形図』を手に入れる権利を保有する人としての究極の到達点。

近右衛門は下界を見下ろしながら、転移魔法で相手の目の前に避ける隙が一切存在しない理不尽な暴力で敵を倒していく。
その様子は、味方ですら恐怖を感じずには居られない。
当然だろう、自分の攻撃の射程外に居るのに、近右衛門の攻撃は最高の一撃が逃げる時間も与えずに零距離で繰り出されるのだ。
勝てる要素が全く存在しない。
近右衛門の転移魔法は根本的に魔法使いのソレとは違うのだ。
あらゆるモノを光に変換し、移動させる。
普通の転移魔法は空間と空間の間にパスを作り、そこを移動する。
だが、魔法そのモノは、転移魔法の構成を破壊してしまう為に通す事は出来ない。
だが、近右衛門の転移はあらゆるモノ、つまりは魔法すらも光に変換し、光速の秒速30万メートルで目標地点に定めた場所に移動させるのだ。
これは、仙人の三つの移動術の一つの『光遁術』と呼ばれるものだ。
音速のざっと4倍のマッハ440の雷速の更に倍の速度で移動する。
目標地点は、10km以内限定で、遮蔽物があっても僅か数ミリ程度の隙間があればどこにでも転移が可能だ。
例え、ロープや魔法で体を縛り付けても発動が可能であり、魔法とは根本の基盤が違う為、魔法による対策は空間毎断絶させる以外に方法は無い。

上空から敵を殲滅し尽すと、近右衛門は転移でさよの待つ学園長室から直結で行ける近右衛門の自室に向かった。
さよとは同居生活を送っている。
さよの家はあるが、独りで居ると寂しくなるからと、さよが望んだのだ。
近右衛門は年甲斐も無く照れながらも、思い人との生活を心から楽しんでいる。

近右衛門が幻術を解き、20代前半の姿に戻ると、さよが部屋のキッチンからお盆にお茶と自製の和菓子を乗せて近右衛門の居るリビングに入って来
た。

近右衛門の部屋は、イルゼ達の修行場と同じ空間だ。
位置的にも実はかなり近い。
と言うよりも、元々修行場は近右衛門が鍛錬していた場所で、近右衛門の部屋と同じ空間にあるのだ。
イルゼ達の為に自分の部屋と強力な結界で修行場との空間を分けているのだ。
部屋と言っても普通に一軒家だ。
あまり広くても落ち着かないからと二階建てで普通の民家程の大きさしかない。
近右衛門とさよはそれぞれ二階の部屋を使い、一階にはリビングとキッチン、お風呂などがある。
近右衛門は若い肉体となって性欲なども20代前半と変わらないくなっている。
自制は出来るがお風呂上りに会うと動悸が激しくなるのを抑えられないのだった。
基本的に近右衛門は彩香との愛情も無い一度っきりのセックスしか経験した事が無いのでかなり初心なのだ。
だが、お互いに思い合っているのを互いに理解しているので、時々いい雰囲気になっては、孫達の顔を思い浮かべて思い留まるのだった。
木乃香や、木乃香の手紙で知った詠春は構わないと言っていたが、それでも罪悪感が払拭出来ず、さよも近右衛門の心の整理が終わるのをゆっくりと
待つスタンスなのである。

居間の大きな窓を少し出た縁側に座る近右衛門にさよは近づいた。
さよがお茶と和菓子を差し出すと、近右衛門はだらしのない笑みを浮べて「ありがとうのうさよちゃん」と受け取った。
それに、さよも笑顔で頷き、二人で縁側に座り月を肴にお茶を飲み始めた。

「明日はいよいよ麻帆良祭なのね。私達の時代からは考えられない事が当たり前になってる世の中だから凄くワクワクしちゃってる」

さよの言葉に、近右衛門も「そうじゃのう」と言った。

「儂達の時代では魔法でしか為し得ない奇跡が、今では科学によって常識の様に行使されておる。もうすぐ、魔法など必要無い時代が来るかも知れんの
…」

近右衛門がしみじみと言うと、さよは近右衛門の頬を撫でた。

「寂しい?魔法が必要なくなったら」

さよが聞くと、近右衛門は首を横に振った。

「いいや。儂は寂しくは思わんよ…。儂が過ごして来た日々、儂の力はそれを象徴しておる。それでも、今はさよちゃん。君が居る…」

「……近右衛門君」

近右衛門は熱に浮かされた様にさよを見つめ、さよも見つめ返した。

「儂は、自分でも愚かな人生を送ったと思っておる。…だけど、それでも…俺は後悔していないよ」

さよは近右衛門の言葉に頷いた。
全てを受け入れる様に。

「俺の人生は、さよちゃんへの思いそのモノなんだ。俺は、それが誇らしいんだ。愚かで、つまらない。それでも、証でもあるんだ。俺が、ちゃんと思い続
けていられた事の」

「近右衛門君、私は貴方の人生を背負う気は無い。だって、貴方の誇りなんだもの。それは、貴方だけの宝物。だから、代わりにお願いがあるの」

近右衛門の言葉に、一端眼を閉じると、再び開いて近右衛門を見つめてさよは言った。

「なんだい?」

近右衛門が柔らかい微笑みを浮べて聞くと、さよは口を開いた。

「私にも、貴方の人生を誇らせて欲しい。私を思ってくれた貴方の思いを。それと同じくらい、私も貴方を思ってみせる標として」

「……ああ。」

そして、近右衛門は自然と左に座るさよの肩を抱いた。
どこまでも優しく、それでいて力強い。
そして、近右衛門の頭の中で、木乃香やイルゼの顔が浮かんだ。
だが、近右衛門は目を瞑った。

――もう…いいよな。

初めて出会ったのはこの地だ。
初等部の入学式で、ティファニーや茜と共に居たさよ。
そして、矢部やコーネリアスと一緒に馬鹿をやっていた近右衛門。
悪戯小僧で、先生にしょっちゅう怒られていた近右衛門と、クラス委員長だったさよが出会ったのは、本当に偶然だった。
職員室で怒られていた近右衛門は、先生に拳骨を喰らってクラクラとしていた。
そして、クラスのプリントを職員室に運んできたさよとぶつかり、散ばったプリントを一緒に片付けたのが始まり。

一目惚れだった。
あまりに可憐で、自分の心を包んでくれる存在。
近右衛門の家は、代々魔法使いの家系だった。
母親も父親も魔法使いが最も素晴らしい選ばれた存在なのだと言って憚らない痴れ者だったのだ。
それが嫌になり、麻帆良の寮に矢部と同室になって入り、馬鹿をやっては気を紛らわしていた。
だが、さよと出会い、彼女の手伝いをさせてくれと懇願し、接点を作ろうと必死になった。
馬鹿をやる事も無くなり、只管にさよに振り向いて欲しかった。
笑顔を見せて欲しい。
優しくして欲しい。
自分を見て欲しい。
一緒に居て欲しい。
自分を好きになって欲しい。
自分と思い出を作って欲しい。
願いは強くなっていった。
少しでも良い所を見せようと勉強も運動も頑張った。
皆が賞賛してくれたが、そんなモノに何の価値も無かった。
矢部が応援してくれた。
初めてラブレターを書こうと思って一緒に文章を考えてくれた。
何処を間違えたんだろう。
ラブレターは果し合いの挑戦状になってしまった。
初めて一緒に遊びに出掛けたのは今でも覚えている。
三年生になって、さよに思い切って友達になって欲しいと言った。
さよはそれに大笑いした。
ショックを受けてなんで笑うの?と聞くと、さよは言った。

――だって、とっくに私は近右衛門君の事、友達と思ってたんだもん。

その言葉に、近右衛門は照れ笑いをしながら、遊ぶ約束をした。
その夜の事だった。
麻帆良学園の禁忌に触れてしまったのは。
夜中まで公園でブランコやかくれんぼ、鬼ごっこを矢部やコーネリアス、ティファニー、茜と一緒になって遊んだ。
それがいけなかった。
夜は魔物の時間だ。
襲ってきたのは下級の悪魔、レッサーデーモンだった。
さよを護る為に、近右衛門は魔法を使った。
そして、近右衛門は全てを語った。
自分の事を。
誰にも言わないで欲しいと言った。
すると、矢部が自分にも魔法を教えて欲しいと言った。
他の皆も。
当時の近右衛門は、自分の秘密を皆で共有できるのだと思い喜んだ。
だが、さよには魔法の才能は全く無かった。
キヨに封印されている事を知らなかったから、さよは魔法を覚える事が出来なかった。
それから時が立ち、近右衛門は魔法世界の戦争を知った。
そして、さよも…。
さよは、戦争を嘆いた。
当時の日本も、戦争が激化し、さよの父は出兵して戦死したのだ。
母も、病で逝き、さよにとっては、誰にも言うわけにはいかないが、戦争が憎かったのだ。
そして、近右衛門はさよに言った。

――俺が、戦争を止めてやるよ!

それは、愚かな子供の考え無しの言葉だった。
だが、さよは信じ、近右衛門はそれを愚かなまでに貫いてしまった。
戦争を止め、真実、世界を救って見せた。
魔法世界の安寧の礎を築いた。
だが、彼を笑顔で迎えてくれる筈だった人はいなかった。
さよも、親友の矢部も…いない。

心が壊れ、魂は磨耗した。
たった一人の女の子に振り向いて欲しかった。
一人の男の子の願いは、誰にも理解してもらえず、彼の人生には何の意味もなさなかった。
彼は、機械と同じ存在だった。
ただ、さよへの思いで縋る様に人を救った。
惨劇を止め、戦いを止め、悪を挫き続けた。
人々は英雄と崇めた。
そして、彼の両親は彼に子孫を残すように強要した。
両親だけではない。
魔法世界の全てが彼に強要したのだ。
近右衛門は誰とも結ばれたくなかった。
だが、彼を実験のモルモットとしてしか見なかった女を孕ませる事になった。
そして、そのまま戦いに戻った。
友の帰還が告げる、運命の分岐に至るまで、近右衛門は心を殺し続けたのだ。

近右衛門は目の前のさよの存在を確かめるように抱き締めた。
万感の思い。
唯只管に思い続けた少女。
近右衛門はさよを少し離した。

「さよちゃん…」

「ねぇ、近右衛門君」

「なに?」

「君やちゃんは無しの方がいいよね?」

さよの言葉に、近右衛門は大声で笑った。
本当の笑顔で。
嘘の笑顔ならば今迄散々して来た。
だが、何時振りだろう。
もう、思い出す事も無い程に、途方もない昔の記憶の中でしか、本当に笑顔を浮べて笑った事は無かった。
そして、近右衛門はさよを見つめた。

「さよちゃん…さよ」

「…なに?近右衛門」

「愛してる」

それが始まりだ。
ようやく、止まっていた時計が動き出した。





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