第31話『幕間U 〜理想の残照〜(短めです)』


泣き疲れて眠ってしまったイルゼを愛おしそうに抱き抱えながら、エヴァンジェリンはチャチャゼロに話しかけようと視界の向こうで地面に座っているチャ
チャゼロに向って歩き出した。

「さて、チャチャゼロ。お前に聞きたい事が…」

ある。と言いかけ、エヴァンジェリンは言葉を切った。
チャチャゼロは眼を閉じたままだった。
まるで最初から動いたなど幻覚だったのではないかと思ってしまうほどに静かに止まっていた。
憎まれ口を叩く事も無く、ただ静かに。

「チャチャゼロ?」

エヴァンジェリンは左手でイルゼを落とさないように器用に抱えながら、右手でチャチャゼロを抱き抱えた。
エヴァンジェリンには、どうしてチャチャゼロが動き出したのか分からなかった。
魔力も供給していないのに…。
エヴァンジェリンは考えない事にした。
ただ、一つの事実を除いて。
そう、チャチャゼロは自分を助ける為に動いてくれた。
その事実だけを胸に抱いて。
いつか、謎が解ければいいと思いながら。

――私は時間だけは腐るほどあるから…な。

そして、イルゼとチャチャゼロを抱えたまま、エヴァンジェリンは小屋に戻り、奥の扉からイルゼ達の寮の洗面所に戻り、洗面所からリビングに出た。
そこに、近右衛門と矢部、そして木乃香が涙を流しながら居た。
最初に口を開いたのは木乃香だった。
眼を覚まし、怪我は粗方回復したようだが、それでもすぐに動くのは無理なほどの痛みを感じている筈なのに、木乃香は布団を退け、エヴァンジェリンに
駆け寄った。

「イルゼ!!おばあちゃん!!」

だが、エヴァンジェリンの下まで来る前に、木乃香は脚を引っ掛けて転んでしまった。

「木乃香」

エヴァンジェリンは木乃香に近づくと、膝を折った。

「木乃香、イルゼなら大丈夫だ。今日は疲れただろう?だから、もう眠っておけ」

優しく木乃香に語り掛けると、エヴァンジェリンはイルゼを寝室のベッドに連れて行った。
そして、戻ってくると、「よっ」と掛け声を掛けて木乃香をお姫様抱っこの要領で抱きかかえ、ベッドのイルゼの隣に横たわらせた。

「おばあちゃん…」

泣きそうになり、イルゼの腕を抱きしめながら木乃香はエヴァンジェリンを見た。

「明日、ちゃんと話すから。今日は眠れ」

そう言うと、エヴァンジェリンは右手で木乃香の額を撫でると呪文を唱えた。

「レクイース・クイース。安らかな眠りを。」

その言葉と共に、木乃香は霧に包まれた感覚を覚えながら意識を手放した。
エヴァンジェリンは木乃香が起きないようにそっと寝室から抜け出すと、扉を閉めた。

「どうじゃ?」

近右衛門が心配そうに聞くと、エヴァンジェリンはフッと笑った。

「大丈夫ではないだろうが…、明日キチンと説明するさ。まったく、適わんな、子供と言うのは。孤独に浸って酒を飲みに行ったが、見当違いも甚だしい
な」

自嘲するように言うが、エヴァンジェリンの顔には何の憂いも見えなかった。
近右衛門は「ふむ」と満足げに笑みを浮かべた。

「お主があの子達を大切に思うてくれとるとは、嬉しいのう」

心の底からの言葉だった。
その言葉に、エヴァンジェリンはつい顔が火照り顔を背けた。

「う、うるさいぞ爺ぃ。それよりも、修行場がボロボロになってしまった。直しておけ!」

そう言うと、エヴァンジェリンは寝室に引っ込んでしまった。

「それにしても…」

矢部の言葉に近右衛門は眉を上げた。

「それにしても、なんじゃ?」

「いいえ、少し意外だなと思っただけですよ。そうそう、学園長。来年のアレ。どのようにするおつもりですか?」

矢部の言葉に、近右衛門は「そうじゃなぁ」と顎に手を置いて考え込んだ。

「やはり、クラスを統合するのが良いじゃろうな」

それは、少子化により、各学年の人数が少なくなっている事だ。

「では、男子と女子をまとめますか?別に、PTAも文句はないでしょう。どちらかと言えば男子、女子で同じ校舎でクラスだけ別にしているのは変じゃない
か?と言う声もありますし」

「そうじゃのう、その方向で話を進めていく方が良いじゃろうな」

そして、どちらが先というでもなく、二人は立ち上がると、部屋を後にした。

「そう言えば、タカミチ君が連れてくるという少女。黄昏の姫御子でしたか?ウェスペルタティア王国の最後の皇女の。彼女も1−Aに?」

矢部の言葉に、近右衛門は厳格に頷いた。
二人は、今中等部に向って歩いていた。

「全てを忘れ、一人の少女として生きさせてあげたい。そう、ガトウ殿が決めたそうでな。記憶を消し、この学園で護り続けようという事になった。情報も操
作してのう」

矢部は、近右衛門の言葉に眉を顰めた。

「ですが学園長。彼女をここに一生閉じ込める事など出来ないでしょう?それでは…本末転倒だ。それに、彼女は魔力完全無効化体質だと聞きます。並
みの記憶消去では意味がないのでは?」

近右衛門は「うむ」と唸るように頷いた。

「確かにのう…。じゃが、このまま彼女を黄昏の姫御子として居ては…。彼女の進む先は、良くて幽閉され、有事の際の切り札として彼女自身の時を止
められるか…、それとも研究の為に解剖されるか…」

歯を噛み締めながら近右衛門がいう言葉に、矢部も呻く様に頷いた。

「立派な魔法使い…、どうなんでしょうね?確かに表向きは、サウザンドマスターや、一部の賢明な魔法使いによって子供達や、信仰者は光を見つめて
います。影など存在しないかのように。ですが…」

「そうじゃのう。過去にも現在にも、未来永劫無くなる事は無いじゃろう。闇を研究する者は何もテロリストや敵だけではない。深い地の底で、我らが同胞
もまた、闇を知りたいと言う欲求に抗えずにおる者も多く居よう。それは止める事の出来ないものじゃ」

「最近…、再び鬼が現れ始めましたしね」

「うむ、あれは…あやつが。テイマーか」

「彼に付き従っていた青き使い魔。ブイモンでしたか?」

「そうじゃ、恐らくはデジモン」

近右衛門は昔の事を思い出していた。
突如増えた鬼、それを生み出す研究機関が存在していたのは、あろう事か自らの陣営だったのだ。
近右衛門も、それを知る事ができた一部の賢明な魔法使い達も、権力と言う眼には見えない恐ろしい力によって、手を出す事ができなかった。
それが、ある日突如として研究所を襲った男によって全てが終わった。
雷光を身に纏い、炎を友とし、幾度も姿を変え、たった一人と一匹で多くの魔法使いが再起不能となった。

「驚くべき事は、誰も死んではおらんかった事じゃ」

「思い出すだけで吐き気がしますね。あの惨状は…」

矢部の言うのはブイモンとテイマーを名乗る男の行った襲撃の事ではない。
男が襲撃した研究所で、近右衛門、矢部、そして一部の魔法使いが調査した所、そこには無数の子供の死体があったのだ。


腕の無い死体。首の無い死体。内臓が無い死体。生殖器だけが抜き取られた死体。脳髄を引き摺り出された死体。骨を全て取り除かれた死体。血を全
て抜かれた死体。拷問の跡がある死体。鎖に縛り付けられたまま餓死したと思われる死体。目玉だけが無い状態でショック死した死体。全身を針で貫か
れた死体。獣の腕が生えた死体。眼が三つある死体。翼の生えた死体。脳から陰部までを串刺しにされた死体。頭以外が謎の獣の肉体になっている死
体。


そして、全ての死体に一様に刻まれた謎の文字。


そして、テイマーが姿を眩ませる前に近右衛門に託した子供達。
殆どが赤ん坊であり、テイマーによれば、何かの実験に使われていて後遺症が残っているかもしれないと言った。
あの事件は、公にはならなかった。
出来る筈が無い。
もし、明るみに出ていれば、人民に不信感が募り、さすれば戦争や、国の存亡そのものまで危うくなる。

「彼女の事は、タカミチ君に任せる他なかろう…。時が来れば、彼女は彼女自身の脚で運命に立ち向かわなければ為らぬ時が来るやもしれん。その時
まで、彼女は一人の少女として、彼女を連れ出す者がこの地に来るまでは、何も知らずに、何も分からずに、その方が良いじゃろう。魔を知れば魔を呼
び込む。子供は、犠牲になってはならんのじゃ。少なくとも、自分の考えで運命に立ち向かえるようになるまでは、子供は幸せに生きるべきじゃ。そう…思
いたいものじゃ」

「現実には、夢物語ですがね。ここでも、子供達にも悪魔や鬼と戦わせてしまっている。どれだけ言葉を紡いでも、それではただの偽善になってしまいま
すよ」

「わかっておるよ。彼女達が選んだ道じゃ。人手不足じゃ。魔法界では既に大人じゃ。…そんな言葉で済ませる事は出来ないじゃろうな。責任を取る事し
か出来ぬこのちっぽけな身じゃ。」

近右衛門は溜息を吐いた。

「矢部よ、もう少しの間、ワシと共にこの学園を支えて欲しい。ワシも歳を取った。お主が嫁や息子と過ごしたいと思っておるのは知っておる。せめて、後2
年、ワシを助けてくれ」

近右衛門の言葉に、皺の刻まれた老年の紳士は苦笑した。

「言われるまでもありませんよ、学園長。既にこの身は数十年前に滅びたのです。それでも、古き友である…君を助けたいと願い、古の術でこの世に残
った。もう、もたせるには難あるこの身も、せめてもう少しだけ頑張りたいと思うよ。それが、さよちゃんの願いだったからね」

「彼女は、もう忘れてしまったじゃろうがな」

忘却の彼方に眠る記憶を思いながら、古き日に、5人で魔法使いとして戦い、彼らを見守っていてくれた少女。
四人は死に、一人は魔法学校で教鞭を取り、最後の一人は、死んでも尚、自分と共に居てくれる友に力付けられ、魔法世界の先を憂えている。

「彼女は、あのまま今でもこの地に縛り付けられている。開放するには、君があの子に見せてあげなければ、君の望んだ理想を」

「…ワシは…」

近右衛門は辛い顔をしながら俯いた。

「若き日の理想。誰も悲しまない世界が出来たらいい。そんな事出来る筈も無いだろうに、それを信じ。そして、彼女もまた、それを信じてくれた」

涙が、近右衛門の頬を伝う。

「それでも、君が頑張って生きて、それを彼女が見守る。君が間違いを起こさないで彼女を安心させて上げられれば、きっと彼女も救われるさ」

「ワシは…」

「出来るよ、近右衛門」

そう、矢部は何時しか近右衛門の眼には若き日の顔に戻って見え、にこやかに微笑みながら言った。

「君は、彼女を愛して、その気持ちをもう何十年も保ち続けてきたじゃないか」

「………」

近右衛門は言葉を発する事ができなかった。

「彼女も、君を愛して、僕達が魔法世界に行っている間に空襲に巻き込まれ死んでしまったのに、それでも君を幽霊になって見守り続けているじゃない
か。もう、55年も。磨耗して、忘れてしまった筈なのに、彼女は今でも寂しい思いをして、怖がりで夜はコンビニの明かりの中で耐えて、それでも、この世
に留まって」

近右衛門の涙が、小さな水溜りを作っている。

「さあ、学園長。私も頑張ります。ですから、前を向いて歩きましょう」

元の口調に戻って、矢部は言った。
近右衛門は「ああ」とだけ呟き、涙を服の袖で拭って歩き出した。
少年時代に思い描いた夢物語。
それでも、それは確かな光となって、彼を支え、動かしているのを、彼の友は知っている。
彼を愛し、彼が愛した少女は忘却の彼方で、知っている。


そして、彼の涙が再び溢れ出す事になるのは、それから数ヵ月後の事。
それはまだ、先のお話である。
永い年月を経ても忘れぬ思いは、確かな絆を残しているのである。






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