![]()
第23話『鼓動』
イルゼは学達に待っててくれと言って教室を出た。
すぐ隣のクラスもホームルームが終わったらしく、先生の姿は無かったが生徒はほとんどが残ってお喋りをしていた。
イルゼが扉を開けると女の子達が注目したが、それに構わずに木乃香とエヴァンジェリンを探した。
一通り見渡すと、直ぐにエヴァンジェリンの目立つ金色の髪を女の子達が集まっている所で発見した。
「あっ、イルゼ!」
木乃香が女の子の体の脇から手を振った。
「なあ、俺と学、学のルームメイトの部屋整理手伝いに行くけど、木乃香達無理っぽい?」
少し叫ぶように聞くと、ごめぇんと言う答えが返ってきた。
「うちらちょっと無理そうや」
その言葉にイルゼは了解と答えた。
手を振って教室から出るときにエヴァンジェリンの声が聞こえた気がしたが、イルゼはそのまま自分のクラスに戻った。
後ろの扉から教室に入ると、学がお帰りと声をかけた。
「木乃香とばあちゃんは無理だってさ」
イルゼは肩を竦めながらそう言った。
学は残念と肩を竦めた。
イルゼは周りを見渡すと、ほとんどが帰っていて、残っているのは俺、学、フェイ、それから四人で固まっている少年達だけだった。
「葵は帰ったのか?」
イルゼが聞くと、学はうんと答えた。
「剣道部を見に行くんだってさ。明日部活紹介があるのにさ」
苦笑しながらそう言うと、学はどうする?と聞いた。
「とりあえず俺達だけでも大丈夫だろ?フェイの荷物はもう届いてんの?」
イルゼがフェイに視線を向けると、フェイはビクッとした。
「う、うん。でも、僕の荷物少ないから」
「?まあ、とりあえず今日はさっさと帰って部屋の整理しようぜ」
イルゼはそう言うと、自分の机の脇のフックに掛けていたランドセルを取ると背中に右肩だけで背負った。
学も自分の席に戻ってランドセルを背負うと廊下に出た。
「フェイ、早く行こうぜ」
「えっ?!あ!うん!」
イルゼがフェイに声をかけると、ぼぅっとしていたフェイは慌てて立ち上がった。
「?焦んなくてもいいけど、んじゃ行こうぜ」
ニッと笑いかけてイルゼが廊下に出ると、フェイもうんと答えて慌てて付いていった。
フェイのランドセルはやっぱり制服同様に女の子用の真っ赤なランドセルだった。
三人は玄関でスリッパをスリッパ用の木箱に放り投げると、自分の下駄箱を探した。
矢部がイルゼ達の靴は係員が下駄箱に仕舞ったと説明したのだ。
どうやって誰の靴か調べたのだろうと疑問に思ったが、考えても分からないので考えるのをやめにしてイルゼはBクラスと書かれた木札の下の下駄箱に
自分の出席番号を見つけた。
そこに、イルゼの黒い運動靴を発見した。
その直ぐ隣でフェイと学も自分の靴を取り出した。
玄関を出ると、両脇に並木があり、中央に二つの大きな木が立っているレンガ床の広場を通り抜けて寮へ続く道を歩き出した。
すると、そう言えばと学がイルゼに話しかけた。
ちなみに、イルゼが中心で右に学、左にフェイが並んでいる。
「なんだよ学?」
イルゼが首を向けると学はうんと言って話し出した。
「二人は部活どうするのかなって思ってさ」
「部活?」
イルゼが首を傾げると、学はうんと言った。
「麻帆良学園は初等部の一年生から部活に入れるんだ。と言っても、校舎毎に他の中等部とか校舎とかとは分かれているんだけどね」
「そういや、葵は剣道部だったな。そうだなぁ、俺はどうすっかなぁ」
腕を組んでイルゼはむむむと唸っていると、フェイに話しかけた。
「フェイはどうする?」
話しかけられたフェイはふえ!?と目を見開いて驚いた。
「部活だよ。どっか決めてんのかなって」
イルゼはフェイの態度にいい加減慣れて特に気にせずに話を続けた。
「えっと…」
フェイはしばし考えるように視線を泳がせると首を横に振った。
「ごめんなさい…、まだ決まらなくて」
すまなそうにそう言うフェイにイルゼは首を傾げた。
「別に謝る必要は無いだろ?」
「あ、あの…、ごめんなさい」
涙目になってしまったフェイにイルゼは分けが分からなくなって慌てて宥めた。
「あ、悪かったよ。よく分かんねぇけど、顔上げてくれ」
そう言いながら、俯いてしまったフェイの顔を上げさせてイルゼはポケットから自分のハンカチを取り出してフェイの眼を拭った。
「ごめ…なさい」
イルゼがハンカチを手渡すと、フェイは眼をタオルで覆ったままグズグズと涙声になってしまった。
堪らずイルゼは学に小声で話しかけた。
「な、なぁ。俺なんかしたかな?」
学はうぅんと唸りながらポツリと語った。
「僕にも分からないけどイルゼが悪い訳じゃないと思うよ。何か理由があるんだろうけど、そっとしてあげた方がいいよ。須藤ってのに虐められててそれ
が今になって悲しくなったのかもしれないし」
学の言葉になるほどと答えた。
「学はすげぇな」
そう言うと、学はそうでもないよと謙遜して苦笑した。
「フェイ、なんか嫌な事とか在ったら俺に言えよな?絶対力になってやるからさ」
イルゼはフェイの頭を撫でてニカッと笑いながらそう言うと、フェイはハンカチを降ろして見開いた目をイルゼに向けて小声でありがとうと言った。
それからイルゼは話を変えようと学に話しかけた。
「それでさ、学は何の部活か決めたのか?」
学はイルゼの言葉にようやく聞いてくれたねと言った。
「僕はミステリー研究部に入ろうと思ってるのだよ」
ふふふと不敵な笑みを浮かべながら学は言った。
「ミステリー研究部?」
イルゼは聞き慣れない言葉に首を傾げた。
フェイも興味を覚えたのかハンカチを目から離して学に顔を向けた。
「そう、略してミス研って呼ばれてるんだけど、色々な場所に行ってはその地の伝承なんかを調べたりするんだ」
「ん?ミステリーって言うんだから探偵小説とかを読んだりするんじゃないのか?」
イルゼの疑問に、良くぞ聞いてくれました!!と学は眼鏡を光らせた。
「イルゼは言っているのはミステリの事だね。厳密に言えば探偵小説もミステリーなんだけど、ミステリは厳密には探偵小説を重点的に示すけど、ミステ
リーは探偵小説の他にも、謎や神秘を追い求める事をも意味するのだよ」
右手の人差し指を高らかに上げて得意げに説明する学にへぇと相槌を打つと、イルゼは面白そうだなと言った。
それを聞きつけて学は顔を綻ばせた。
「じゃあ、明日の放課後の部活紹介は一緒にミス研に行こうよ!フェイもどうだい?」
学が話を振ると、フェイはいいの?と怯えるように聞いた。
だが、その視線はどちらかと言うとイルゼに向っていた。
「?俺ならいいぜ、むしろ大勢の方がいいよな。よっしゃ、学、フェイ、明日はミス研を見に行くぞ」
イルゼがニカッと笑いながら言うと、学はオー!と叫び、フェイもうんと嬉しそうに頷いた。
そうこう離している間に、イルゼ達の視界に寮が見えた。
寮の自動ドアを通ると、イルゼと学は管理人の夢水をロビーの向こうで花に水を上げているのを見つけた。
「おじさん!鍵ちょうだい!」
イルゼが大声で叫ぶと、夢水はおぉと答えてゆっくりと近づいてきた。
イルゼと学が鍵をそれぞれもらうと、エレベーターで6階に上がった。
みんなは外に居るのか、寮の中にはほとんど人がいなかった。
602号室の学とフェイの部屋の前で、学が鍵を開けるのを見守ってから中に入った。
学の部屋はイルゼ達の部屋とは違った。
二人部屋だからか、リビングの作りは同じだったが風呂は付いていなくて、洗面所の先にはトイレだけがあり、反対の扉には洗濯機のみが置いてあっ
た。
寝室はベッドが二つ並んでいた。
「あれ?風呂ないんだ」
イルゼがそう言うと、学は何を言ってるんだい?と首を傾げた。
「そんなの当たり前だろう?お風呂は屋上の共同入浴場を使うようにってパンフレットに書いてあったじゃないか」
そう言う学に今度はイルゼが首を傾げた。
「でも、俺達の部屋にはあるぜ?」
そう言うと、学は本当かい?!と目を見開いた。
すると、突然、学はあっ!と叫んだ。
「そうか、木乃香ちゃんは近衛って苗字だよね?もしかして学園長と関係があるのかい?」
イルゼは学の質問にああと答えた。
「孫だよ、木乃香はじいちゃんの」
「成程、そう言う理由か。なら納得がいくや」
イルゼは未だ首を傾げていたが、そうだっ!と手を叩いた。
「なんなら、風呂は俺と俺達の部屋で入るか?結構広いし」
すると、学はいいのかい!?と驚いた。
「勿論、フェイもいいだろ?」
イルゼが聞くと、フェイは小さく頷いた。
「んじゃ、決まりだな。とりあえず、フェイの荷物整理してから風呂入って飯食いに行こうぜ」
そう言うと、イルゼはフェイの荷物を探して部屋を歩き回った。
すると、筆箱や教科書が散乱している机の隣の机の横にダンボールが一つだけ置いてあった。
「これかな?」
イルゼはダンボールを持ち上げると、驚くほど軽い事に気が付いた。
「なぁ、他にないか?」
イルゼがリビングの中央の小机の上にダンボールを降ろすと、辺りを見渡しながら学とフェイに聞いた。
「ないけど、さすがにそれだけって事はないよね?」
学は寝室を見に行って首を横に振りながら言った。
すると、フェイがおずおずと口を開いた。
「あの、僕の荷物…それだけなの…」
え?とイルゼは眼を丸くした。
「これだけって、かなり軽いぞ」
イルゼがそう言うと、フェイは俯いてしまった。
「まいっか、とにかく開けて中の物整理しようぜ」
そう言ってイルゼはダンボールのガムテープを強引に引き剥がした。
ビリビリと一気に剥がし終えると、イルゼはダンボールを開けた。
すると、驚いた事に中にはケバケバしい変なガラの上着とダボダボなフェイが履くには大きすぎるズボン、それから紙の筆箱と鉛筆で書いてあるセロテ
ープで箱型にしているモノと、後はよくわからないガラクタしか入っていなかった。
「なんだこりゃ!?」
イルゼは頭がこんがらがって学の方を振り返ったが、学もギョッとして固まっている。
「なぁ、これだけか?いくらなんでも…」
言いかけてイルゼはフェイが泣きそうになっているのを見て口を閉ざした。
「言いたくないなら言わなくていいけどさ。さすがにこれじゃあ生活出来ねぇだろ?ちょっと、俺の部屋来いよ」
イルゼはフェイの手を取ると学にも来てくれと言って部屋を出た。
「あ、あの…」
フェイはイルゼの行動に頭が混乱してしまった。
「どうするんだい?」
学が聞くと、イルゼはんとなとイルゼの部屋の鍵を開けながら答えた。
「じいちゃんが俺用に服を滅茶苦茶大量に用意してくれてさ。俺が着るには多すぎるからフェイに分けてあげようと思ってさ」
イルゼの言葉に、フェイはえ!?と目を見開いた。
「だ、駄目だよ。イルゼ君のおじいちゃんが用意してくれたのを…その、僕が着るわけには…」
フェイは慌ててそう言った。
「うぅん、僕もそれはあまり感心出来ないなぁ」
学も苦い表情で言った。
「なんでだよ?」
イルゼは首を傾げると、学は溜息を吐いた。
「いいかい?君の服は君のおじいさんが君の為に買った物なんだよ?それを他人が着ているのを知ったらいい気にはならないよ」
学の言葉にイルゼは言葉に詰まった。
「なら、どうすりゃいいんだよ?」
イルゼの言葉にうぅんと学は悩んだ。
「新しく買うにもお金が必要だし、買わないわけにもあれだけじゃさすがに学校生活無理だしなぁ…」
すると、イルゼはフェイに話しかけた。
「フェイはお金持ってんのか?」
と聞くと、フェイは首を横に振った。
「僕…、全然お金が無くて…」
完全に俯いてしまったフェイに学は首を傾げた。
「でも、それっておかしくないかい?ここだって学費は無いわけじゃないんだよ?ここの学費が払えるのにお金が無いの?」
学の質問に、フェイは小さな声で答えた。
「この学校には、…その、招待状みたいなのが来て試験を受けたら学費を免除してもらえて…」
そう言ったフェイの言葉に、学は目を丸くした。
「へぇ、知らなかったな。じゃあ制服も?」
すると、フェイはううんと首を横に振った。
「これだけは…その、おじさんとおばさんが買ってくれて…」
「??おじさんとおばさんはお金持ってるの??話が見えないなぁ。第一、君に女の子用の制服を用意したのは君のおじさんとおばさんなのかい?」
分けがわかんないと学は首を傾げた。
すると、フェイは再び泣きそうになってしまい、学は別にいいけどねと話を閉じた。
「そんなら、俺が買ってやるよ。じいちゃんは好きに使えって言ってたし、別に飯代以外にゃ使わないだろうから服くらい買えるからさ」
それならいいだろ?とイルゼは学に聞くと、学は頷いた。
「それなら問題ないね。家の事情を他人が口を挟んでいいことじゃないくらい分かってるから僕は何も言わないけど、イルゼが言ってたみたいに辛かった
ら僕やイルゼに言うんだよ?」
学は眼鏡の奥で心配そうにフェイを見ながら言った。
「う、うん…。ありがとう」
微かに微笑んでフェイは学に頷くと、イルゼに顔を向けた。
「あの…でも、僕いつ返せるか…」
フェイがそう言うと、イルゼは首を傾げた。
「は?何を返すんだ?」
イルゼが怪訝な顔をして聞くと、フェイはボソボソと言った。
「あの…お金、僕…」
それだけ聞いて、イルゼは呆れたように溜息を吐いてあのなぁと言った。
「フェイに服買うってのは俺が無理矢理決めた、俺の我侭なわけ。だから、返すとか気にしなくていいんだよ」
わかったか?と聞いてイルゼはフェイの手を掴んだまま逆の手でエレベーターのボタンを押した。
「あの…、ありが…とう」
フェイがボソボソとお礼を言うと、イルゼは、んとだけ答えた。
エレベーターが来て、乗り込みながら、にしてもとイルゼは口を開いた。
「話大分戻るけどさ」
学は首を向けてん?と答えた。
「ミス研に明日行くとして、フェイはどっか見てみたい部活とかあんの?」
俺は特に無いんだけどと言ってフェイに話を振った。
「え?あ、僕も特には…」
そっかとイルゼは開いたエレベーターの扉から出た。
外に出ると、一瞬だけ胸騒ぎがした。
それは本当に些細な事で、イルゼは特に気にしなかった。
それから、イルゼと学、フェイの三人はショッピングエリアを歩きながら子供服のお店を見つけて入った。
店内には人は少なく、イルゼはフェイに顔を向けた。
「フェイはどんなのがいいんだ?」
すると、フェイは狼狽したようにアタフタとわけのわからない言葉を発した。
「?落ち着けって、どんな服がいいんだよ?」
「あの…えっと、僕、何でも…」
フェイの言葉にならとイルゼが言った。
「俺が選んでやるよ、ちょっと待ってな」
そう言うと、イルゼは店の奥に進んで行ってしまった。
取り残された学とフェイは待ってよぉと言いながらイルゼの後を追った。
店内は意外と奥行きがあって広かった。
学とフェイがイルゼを見つけると、イルゼが二人を指差して店員さんに何か言うと、また奥に行ってしまった。
ようやく追いつくと、イルゼが何も置いていない机に服を大量に重ねていて、フェイを鏡の前に連れて行った。
「へへぇ、色々と選んだぜ。まず、これな」
そう言ってイルゼがフェイの体の前に翳したのは女の子用のワンピースだった。
「ってイルゼ?!」
学は目を丸くして言った。
「?なんだよ?」
イルゼは首を傾げると、学は呆れたように言った。
「だって、それ女の子用じゃないか」
すると、イルゼはまたも首を傾げた。
「だって、店員さんがフェイに合いそうな服を教えてくれたんだぜ?それに似合ってるじゃん」
イルゼがそう言うと、フェイは顔を真っ赤にした。
「ぼ、僕、これでいい…かも」
その様子に、学は溜息を付いた。
「イルゼ、僕は君がいつか後悔する日が来ない事を願うよ」
そう言う学に首を傾げながらイルゼは次々にフェイに服を着せていった。
それから、店員さんも混ざって、というよりも店員さんがハイテンションになりながら服をフェイを着せ替え人形のようにして着せまくり、下着もなかった事
をイルゼが思い出して、学は止めようかどうするか迷っている間に女の子用の下着を買ってしまっていた。
イルゼの感覚がおかしいのか、それを拒否しないフェイの性格がおかしいのか、自分がしっかりしなくてはいけないとだけ考え、学はいつしか考えるのを
やめた。
結局、女の子用の服を数着と、女の子用の下着を数点と、白いソックスを幾つか、それにフェイの靴がボロボロだったのでそれも買った。
店員さんがイルゼが払うのを見て何故か感激して半額以下にしてくれたおかげでそんなに高い買い物ではなくなった。
学は、イルゼが責任を負うことであって僕は関係ないと黒いオーラを出しながら眼鏡を光らせた。
そして、途中で遅めの昼ごはんを食べると、イルゼ達は今度は学用品売り場に行って、教科書は学校側が渡したようなので、キチンとした筆箱と文房具
を買い、縦笛なんかもちゃんと揃えた。
フェイは慌てて断ったのだがイルゼは強引に選ばせたり選んで買ってしまい、学は達観したように自分も選ぶのを手伝うようになった。
寮に帰って来た時には大荷物になってしまっていたが、翌日には必要になるので、自分達で持ち帰った。
それから、タオルなんかはイルゼの部屋のを使うのは問題ないだろうと言う事になり、部屋の整理は直ぐに終わってしまった。
それから、隣でエヴァンジェリンや木乃香が帰ってきた物音が聞こえるまで、イルゼの部屋にあったスーパーファミコンで遊んだ。
そして、外が暗くなる事もあってイルゼは部屋に戻った。
「んじゃ、風呂入る時に呼ぶからなぁ」
そう言って、イルゼは自分の部屋に戻った。
部屋に戻ると、木乃香とエヴァンジェリンがグッタリとして倒れこんでいた。
「どうしたんだ一体?」
イルゼは二人の疲労困憊っぷりに冷や汗を流しながら聞いた。
「ああ、イルゼ帰ったか」
エヴァンジェリンは疲れ果てた声を上げながら顔を上げた。
「大丈夫かばあちゃん?」
イルゼはエヴァンジェリン抱きかかえるようにして起こすが直ぐに倒れこんでしまった。
「何があったんだよ一体?」
冷や汗を垂らしながら聞くと、木乃香が倒れこんだまま説明しだした。
「その前になんか食うか?」
イルゼが聞くと、エヴァンジェリンが頼むと言ってからん?と首を倒れこんだまま器用に傾げた。
「よぉし、待ってろ!俺が夕飯を作るぜ!!」
と言って、イルゼは台所に駆け込んでいった。
「って待て!!お前料理した事あるのか!?」
エヴァンジェリンは慌てて立ち上がると叫んだ。
「無いけど気合だ!ばあちゃん疲れてんだから休んでな!俺が元気の出るのを気合で創って見せるからさ!!」
「ちょっと待て!!作るが違う漢字になっているぞ!!私が作るからお前は座っていろ!素人が下手に料理に手を出すととんでもない事に!!」
エヴァンジェリンは慌てて台所に入るが疲れているせいかイルゼはそんなに力を入れていないのに簡単にリビングに押し返せた。
「ばあちゃんは疲れてんだから休んでろって!木乃香とばあちゃんに元気になってもらう為に俺がスペシャルな料理を作ってやるからさ!」
そう言って、イルゼは邪魔が入らないようにキッチンの扉を閉めてしまった。
エヴァンジェリンは慌てて扉を開けようとしたが、鍵を閉めてしまったらしく全く開かなかった。
「おい、開けろ!開けんか!!」
エヴァンジェリンが扉を只管叩きながら叫ぶが、イルゼは扉の向こうでくぐもった声で大丈夫大丈夫と言った。
そして、扉の向こうでイルゼが誰かに話しているのが聞こえた。
『あっ!学か?俺俺!ん?オレオレ詐欺には引っかからないぞ?違うって!イルゼだよ!そう!今からフェイと俺の部屋来いよ!飯食わせてやっから
さ!ん?ああ、俺が作るぜ?何?遠慮しとく?んな遠慮なんかいらねぇって!いやでもぉ、じゃなくて早く来いよな!安心しろって気合でスペシャルな料理 作ってやっから!ん?胃薬持ってく?何でだよ?あ!もしかして胃薬って調味料ってやつなのか?そうかそうか!ん?何慌ててるんだ?とりあえずさっさ と来いよな。んじゃ待ってるぜ!!』
扉の向こうで不吉な言葉が聞こえた気がしてエヴァンジェリンは耳を塞いだ。
イルゼは善意でやっているのはわかる。
だが、胃薬?なんの冗談だ?
逃げるか?馬鹿な、私の今の体力では木乃香を連れて行けんし、イルゼの好意を踏み躙るなど…だが、命に関るやもしれん…ああ、私はどうすれば
…。
エヴァンジェリンが悶々と悩んでいると、玄関からインターホンが聞こえた。
エヴァンジェリンは、イルゼが呼んでいた学(犯人)と友達(生贄)だなと思い、とりあえず招く事にした。
少なくとも胃薬入りだとわかってしまったご飯をイルゼが作る原因を作った当人に食べさせねば気がおさまらなかった。
エヴァンジェリンが玄関の扉を開けると、廊下には青い顔した黒の長髪の眼鏡と頬を赤くした栗色の髪の少女が立っていた。
「や、やあエヴァンジェリンちゃん。イルゼに死刑宣告…じゃなかった、食事に招待されたんだけど」
「貴様か、イルゼに胃薬入りのナニカを作るよう唆した愚か者は?」
手をバキバキ言わせながら、エヴァンジェリンは射殺すような視線で学を見た。
「ぼ、僕は別にそんな事唆してないよ!!ただ、胃薬持ってった方がいいかなぁって冗談交じりで言ったら…」
段々涙目になって来た学に、エヴァンジェリンは段々哀れになってきてそうかと言いながら方を叩いた。
「それで、お前がいけに…イルゼが言ってたフェイとかいうのか?」
何言おうとした?と学が言ったが無視してエヴァンジェリンは学の後ろでエヴァンジェリンの殺気に怯えているフェイに視線を向けた。
「あ、あの…あぅぅ」
エヴァンジェリンの視線に耐え切れずに涙目になってしまったフェイにエヴァンジェリンは慌てて声をかけた。
「お、おい!何故泣くんだ?そんなに怖かったのか?私はそんなに怖いのか?!」
そう言うと、涙眼になりながらフェイは首を横に振った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
ボソボソと謝り続けるフェイに学はストップ!と声をかけた。
「ほら、とりあえず話が進まないからさ。中に入ってもいいかい?」
学の言葉に、エヴァンジェリンはコホンと可愛く咳払いをすると、すまんすまんと言いながら中に入って学とフェイを出迎えた。
ちなみに、エヴァンジェリンは途中で幻術が解けないように近右衛門からもらった幻術を固定化する髪飾型魔法具を着けて後ろで髪を纏めている。
学とフェイはお邪魔しますっと言いながら入ると、倒れていた木乃香は起きていて学が入ってくると笑顔で出迎えた。
「今晩はや、学」
「こんばんは木乃香ちゃん、こっちはフェイだよ。前に言ってた今日から一緒の部屋に住んでる子」
学が後ろのフェイを紹介すると、木乃香はニコッと笑って手を差し伸べた。
「フェイちゃん言うん?うちは近衛木乃香や。よろしゅうなぁ」」
木乃香の優しい笑顔に、フェイもどこか安心したような笑みを浮かべた。
「フェイ…、フェイ・アリステア・エバンスと言います」
少しどもってしまったが、フェイは確りと自己紹介をした。
「おい、フェイってのはさっき私に散々怯えていなかったか?何だ?私はそんなに怖いと言う事なのか!?」
その様子に納得いかな気に段々声が大きくなるエヴァンジェリンにそんな事ないですよと両手でなんとかエヴァンジェリンを宥めた。
そんな事をしていると、キッチンの扉が開いた。
「よう、学、フェイ来たか!今持って来るからな!」
完成したらしい。
イルゼは顔だけ出すとそう言ってから再びキッチンに戻った。
そして、次の瞬間に料理?を持ってリビングに入ってきた。
「えっと、イルゼ?」
学は汗をダラダラと流しながら唇をヒクつかせてなんとか冷静さを保ちながら口を開いた。
「なんだ?」
「ソレは一体?」
学が指差した先には、どういう訳か茶色い牛乳の香りがやたら目立つ謎の液体がイルゼの持つお鍋に入っていた。
「…わ、私は…」
後退りしながら、エヴァンジェリンは肩を震わせた。
そして、イルゼは鍋を小机の上に敷いた鍋敷きの上に置き、キッチン戻って器を5つ置いた。
イルゼが座りなよと声を掛けて、木乃香がフェイの手を引いてイルゼの隣に木乃香、その隣にフェイが座った。
エヴァンジェリンは溜息を吐いて座った。
学も諦めてフェイの隣に座った。
「最初に、聞きたいんだけどさ」
学は茶色い液体の放つ牛乳の香りに顔を青ざめながらイルゼに話を振った。
「これ、何入れたの?」
学の質問に、イルゼはん?と言ってから答えた。
「まず、チョコだろ?」
「はい?」
イルゼの言葉に学は何を言っているのかわからなかった。
「後は、オレンジジュースと牛乳とイチゴシロップと砂糖と胃薬が無かったからラムネと苺ジャムを少々入れたぞ!」
自信満々に言うイルゼに、エヴァンジェリンと学はオエッと言ってしまったが、少なくとも毒物ではないだろう事を知りホッとした。
少なくとも胃薬は入っていない。
「んじゃ、いっただきまぁす!!」
お皿に取り分けてからイルゼがそう言うと、エヴァンジェリンが待ったをかけた。
「またんか!」
「なんだよばあちゃん?」
エヴァンジェリンは目を丸くしながらそう言うイルゼに溜息を吐きながら言った。
「やっぱり私が作るよ。ちょっと待っていろ、それは済まんが捨てるぞ」
エヴァンジェリンは心を鬼にして言った。
「ええ?!なんで?!」
エヴァンジェリンの言葉にショックを受けたイルゼはエヴァンジェリンに涙目で聞いた。
その様子を、木乃香とフェイが心配そうに見つめているが、学はむしろ心配するべきは我が身ではないのか?と聞きたくて堪らなくなった。
「お前の好意は嬉しいがな、それを食べると健康に悪いのだ。木乃香が病気になったら嫌だろう?」
エヴァンジェリンが諭すように言うと、イルゼは言葉が詰まった。
「でもよぉ、ばあちゃん疲れてぶっ倒れてたじゃんか」
「あれはクラスの朝倉とか言う小娘のテンションに付いていけなかっただけだ。もう大丈夫さ。すぐ作るからお前達はお喋りでもしていろ」
フッと笑みを浮かべながらそう言ってキッチンに向うエヴァンジェリンに、おずおずとフェイが声を掛けた。
「あ、あの…。僕、手伝います」
それと同時に木乃香も立ち上がった。
「うちも手伝うえ、おばあちゃん」
「ん?別にお前達は休んでてもいいんだぞ?」
エヴァンジェリンの言葉に、木乃香はやんわりと首を横に振った。
「うちら、おばあちゃんを手伝いたいんや」
木乃香の言葉に、フェイも頷いた。
すると、エヴァンジェリンは優しく微笑むとキッチンに入っていった。
そして、自分は黒いエプロンを着て、木乃香とフェイにそれぞれ白と青のエプロンを手渡した。
「それじゃあ、頼むとするよ。今日は人数も多い、鍋にしようじゃないか」
木乃香とフェイはお互いに微笑み合うと、そう言って、キッチンに入って行くエヴァンジェリンの後を追った。
エヴァンジェリンは冷蔵庫を開けて鍋に使えそうなものを探した。
「む、モツがあるな。キャベツにゴボウにニラと白菜…。椎茸とシメジもあると。モヤシに…むむ!餅巾着まであるじゃないか。豆腐とニンニクも入れた方
がいいな。フェイ、すまんがお前の後ろにある棚から炒りゴマを出してくれんか?確かあったと…そう!それだ。ん?鷹の爪もあったのか、よしよし、後は 出し汁用に鰹節と昆布と…。木乃香、足元のユニットから鍋用の鍋を出してくれ、わかるか?おお、いいぞそれだそれ。水を張っておいてくれ。真ん中くら いまででいい。フェイ、同じ戸棚から醤油を取ってくれるか?む、濃口と薄口があるのか、よし!両方使うから出しておいてくれ。ミリンも出してくれたの か?いいぞ。日本酒とチキンコンソメは…」
エヴァンジェリンが次々に指示を飛ばして材料を奥の机に並べていく。キッチンは子供三人が歩き回っても余裕があった。
「あ…、日本酒ありました」
フェイが言うと、エヴァンジェリンは良くやったと笑いかけ、フェイは照れながら微笑んだ。
「おばちゃん!チキンコンソメあったで!」
「そうかそうか、偉いぞ二人共。おっ!カツオ出汁の元と昆布出汁の元があった」
エヴァンジェリンは二人を褒めながら上の方の引き出しを台に乗りながら器用に捜して出汁用のモノを取り出した。
「油ありました…。ゴマで大丈夫ですか?」
エヴァンジェリンは不安げに聞くフェイに大丈夫だと笑いかけた。
それから順番に具や汁を入れていき、鍋を作り始めた。
三人はそれぞれ野菜を分担して切り分けて行き、
リビングに残ったイルゼと学はキッチンから聞こえる声を聞きながらゆったりとしていた。
「はぁ、何がいけなかったんだ?俺のスペシャル料理…」
イルゼは項垂れる様に言うと、学は本気で言ってるの?と呆れた視線をイルゼに向けた。
「なんであんな甘い物ばっかり入れたんだい?いくらなんでも健康に悪いってわかると思うんだけど?」
すると、イルゼは口を尖らせた。
「だって、疲れた時は甘い物って言うじゃんか」
「限度があるよ…。それにしても、フェイは馴染んでいるねぇ」
そうだなぁ、とイルゼは返した。
「暇だしゲームでもすっか?」
イルゼが聞くと、学はいいねぇと答えた。
「桃鉄やっか?」
「何時間やる気なんだい?」
イルゼの言葉に呆れたように返す学。
「ドンキー2は?」
「途中で止められなくなるからねぇ」
「ボンバーマン3!」
「僕、あれ苦手なんだよねぇ」
「零の刺青!」
「時代が違うよ」
「ポケモン!」
「一人しか出来ないじゃないか」
「よぉし!ロックマン7!」
「だから一人しか出来な…くもないか」
「ん?あれって一人プレイのゲームじゃないの?」
「一人プレイ用だと思ってて言ったのかい?」
「いや、適当に名前挙げてただけ」
「…そうかい」
学が学の部屋に置きっ放しにしていたスーパーファミコンを持ってくると、イルゼはロックマン7のカセットをセットしてスイッチを入れた。
「でもさ、どうやって二人で遊ぶんだ?」
イルゼの質問に、学は1コン貸してと言ってスタートボタンを押した。
「パスワードを1415558578236251っと」
パスワードを入力して、コントローラーの両脇のボタンを押しながらスタートを押すと、イルゼが見た事も無いステージが現れた。
「なんだこれ?」
「隠し要素だよ。ロックマンとフォルテで戦えるんだ」
「よくこんなもん見つけたな…発売したの二週間前だぞ」
イルゼは呆れたように言うと、学は人差し指を上げながら得意げに語りだした。
「ふふふ、このゲームは確かに難易度高いけど、僕の手にかかれば弱点武器でスイスイさ!最後のワイリーマシンが異常に強かったけどさ…。エンディ
ングでパスワードが出てね。パスワードを入力するときに全ボタン一緒に押したらこの隠し要素を発見したわけさ!」
得意げにすごいだろ!とでも言うかのように胸を張る学にイルゼは素直に感心した。
だが、イルゼはでもなぁと言った。
「俺的にはブルースかライトットで戦いたいんだけどなぁ」
「ブルースはともかくライトットでどう戦うつもりなんだい?」
「頭からネジミサイルを撃つ」
「アホでしょ君…」
それからイルゼがコマンドの練習をして、イルゼがロックマン、学がフォルテで対戦をしていると、キッチンから木乃香が出てきた。
「出来たえぇ、お鍋持つの手伝ってくれへん?」
学のブースターキックとスラッシュウェーブのコンボに何も出来ないまま連敗をきして打ちひしがれていたイルゼは了解と言って立ち上がった。
「ふふふ、まだまだイルゼは詰めが甘いね」
「あんなドSなコンボを平気で友達に掛けられるお前が信じらんねぇ」
お互いに毒を吐きながら苦笑して学も立ち上がると、一緒にキッチンに入った。
キッチンの中では、フェイが炊飯器からご飯をお椀によそい、エヴァンジェリンが棚から小皿を取り出していた。
「ああ、イルゼと学は鍋を持っていってくれ。重いから気をつけるんだぞ」
エヴァンジェリンの言葉に了解と言ってイルゼと学は慎重に鍋の持ち手を二人で持って運んだ。
木乃香が鍋敷きを敷いてくれて、その上に置くと、フェイが盆にふっくらとした真っ白なご飯を乗せて運んできた。
その後にエヴァンジェリンがポン酢やゴマダレを運んできた。
鍋を囲んで、玄関の近くの面に左からイルゼと学が座り、左側の面に木乃香とフェイ、イルゼ達の対面にエヴァンジェリンが座った。
「いただきます!」
食事をしながら、五人は今日の事を話しながら新学期にそれぞれの思いを馳せた。
フェイの事を聞くと、エヴァンジェリンは目を丸くしたが、木乃香はそうなんかぁとだけ言うと簡単に受け入れた。
エヴァンジェリンも自分がとやかく言うことじゃないなと特に何を言うでもなかった。
フェイの服をイルゼが買った事に関しては、木乃香は自分のも上げようか?と聞く程度だった。
そして、食事が終わり、男女に分かれて風呂に入り、学とフェイが部屋に戻ると、エヴァンジェリンは、鍵を閉めた。
中に部屋の主たるイルゼ、木乃香、エヴァンジェリンが居れば、招く事で結界内に他人を入れることが出来る。
だが、一度外に出れば、再び招かれなければ部屋の中には鼠一匹、虫一匹入り込む事は出来ない。
そして、エヴァンジェリンは眼鏡を掛けて木乃香を小机に座らせた。
時刻は8時を回るところだった。
「それじゃあ、今日から夜のこの時間から寝る時間までを魔法の授業の時間とするぞ」
エヴァンジェリンの言葉に、木乃香はしっかりと頷いて見せた。
イルゼも木乃香の隣に座っている。
イルゼに魔法は使えないが、知識がある事は良い事だからとエヴァンジェリンが言ったし、イルゼ自身も木乃香と同じ様に魔法について興味があったの
だ。
「それじゃあ、最初に木乃香。魔法を教えていく上で最初に知るべき三つの大前提があると私は考えている。何だかわかるか?」
エヴァンジェリンの突然の質問に、木乃香は目を丸くしてからすこし唸りながら考えるが首を横に振った。
「うち、わからへん…」
シュンとなってしまった木乃香にエヴァンジェリンは別に構わんと言った。
「これは私の自論だから、他の魔法使いは教えない事だしな。まあ、魔法使いになる上での覚悟みたいなものだな」
「覚悟?」
イルゼが首を傾げると、エヴァンジェリンはそうだと言って右手の拳を持ち上げて見せ、人差し指だけを上げた。
「まず、一つ目は魔法と言うのはどれほどの偉業を成そうが、何も知らない者にとっては御伽噺の世界だけの神秘であり、現実には忌避されるしかない
力だと言う事だ」
エヴァンジェリンの言葉に、木乃香はえ?と目を丸くした。
「木乃香、一般人の魔法使いのイメージが実際にどういうモノか知ってるか?」
木乃香はエヴァンジェリンの質問にうぅんと考えてから答えた。
「やっぱり、魔法の杖で変身して、呪文を唱えて不思議な事をする…かな?」
自身なさ気に言う木乃香に、エヴァンジェリンはいいやと首を横に振った。
「いいか?木乃香の言っているのはアニメーションで魔法使いのイメージをコミカルにしたモノなんだ。忌避してはいても、魔法と言う何でも物理法則を捻
じ曲げて不思議な事が出来る力に憧れる者は大勢いるから、有名なのはウォールト・ディズニーが自分のキャラクターに魔法を使わせたりしている。他 にも、数々の小説の中でヒロインを誑かしたり、時には世界を救ったりする魔法使いの話も出てくる。そう言ったイメージは、過去の有名で高名な一部の 魔法使いの話を口伝によって伝えられ一般人にも浸透した中で最近になって生み出されたものなんだ。アーサー王の伝説に出てくる助言者マーリンなん かは特に映画の語り手として登場する事もある」
「なら、偉業を成せば嫌われたりしないんじゃないのか?」
イルゼの疑問に、エヴァンジェリンはいやと答えた。
「マーリン、コルネリウス・アグリッパ、日本なら安倍晴明なんかもそうなのだがな。彼らはその時代で活躍し、その時代には一般の人でも彼らの力を受け
入れられるだけの神秘に対する寛大さがあったのさ。だが、今は物理化学が発展し過ぎた。魔法なんて力を現実に受け入れるにはこの世の理を知りす ぎたんだ。彼らの活躍を受け入れられるのは、彼らの存在が神話なんかの空想上の存在とししか認識できないからなんだ。特に、アーサー王は死後、 元々数ある異世界の中でも、人を最も拒む妖精の領域に招かれた。故に、形式として残された偽のアーサー王の墓を掘り返した者がアーサー王を完全 に空想の産物だと決めつけ、マーリンもまた、空想上の存在にされてしまった。どれだけの偉業を成し遂げても、現代に魔法使いが大手を奮って活躍で きるわけがないんだよ」
そして、エヴァンジェリンはさてと一端息を吐いた。
「話を戻すが、魔法使いがどういう存在かと一般人の認識で言えば、それは悪魔と契りを交わし、尊厳も、誇りも、人間として護るべきすべてを売り、
人々に害を為す存在なのさ」
木乃香はえ?と分けが分からないと言った表情をした。
「待って、おばあちゃん。悪魔との契約って?それに尊厳や誇りを売るって!?」
木乃香が捲くし立てるように聞くのを片手で制し、エヴァンジェリンは言葉を続けた。
「いいか?それはあくまでも一般人の思想の話だ。実は、この思想には理由がある。木乃香、中世ヨーロッパで起きた魔女狩りと言うのを知っている
か?」
魔女狩り、その単語に恐怖を覚えながら、木乃香は首を横に振ってイルゼを見た。イルゼも不穏な単語に眉を顰めた。
「実は、私も一度それに捕まってしまった事がある」
「ばあちゃんが!?」
最強の魔法使い、そのエヴァンジェリンが捕まったと言う事に驚き、そして、魔女狩りという不穏な単語の事もあり、不安げに木乃香もエヴァンジェリンを
見つめた。
「ああ、魔女狩りはあの時代に盛んに行われた歴史上を省みても戦争以上に意味も無く…いや、あれも形は違うが戦争と同じだったのかもな…」
苦々しげに言うエヴァンジェリンに二人は更に不安げな表情を浮かべた。
「魔女狩りは、魔女…Witch Huntと呼んではいるが、実際には男も女も関係無く、魔法使いを狩ると言う意味で使われた。元々、魔法世界…。ああ、お前
達は知らないだろうが魔法使い達が太古の昔に、数ある異世界の中で何も存在しない無の世界を開拓して現代のほとんどの魔法使いが暮らしている世 界の事だ。いつか行く日もあるだろうさ。まあ、その話は後だ。それでな、魔法世界を開拓する切欠こそがその魔女狩りにあった。それより前は、例え世 に言う『暗黒の中世』の中であっても、教会ですら魔法使いの存在は黙認されていた。信じる人もいたし、信じない人も居たが、それでも魔法使いは一つ の村に必ず一人は居て、生活の支えとなっていたのさ」
木乃香とイルゼは黙って話の続きを待った。
「だが、中世の後半に、一つの歪みが世界で起こった。それまで確固とした権力を振るっていたローマ教会、まあカトリック教会の事だが…。ん?わから
ない?キリスト教くらいは知っているだろ?そうだ、歴史上で現代に至るまで世界で最も力のある宗派だ。キリストの映画を見たのか?なら話が早い。そ のキリスト教の中の考えの一つとしてカトリックと言う教えが力を持っていたんだ。だが、それが崩れかけたのさ。12世紀にカタリ派と言うのが誕生し、ル ターなんかのプロテスタントが有名だ。まあ、違う考えを持った人間がそれぞれの考えで動き出したという事だ。歴史を勉強すれば段々分かってくるだろ うから、それは学校で習え。話を戻すぞ?時の教皇、キシスト教の中でその時代に最も権力を握る者の事だ。そして、その時代の教皇の名は『インノケ ンチウス8世』。奴は自分達の権力が崩れる事に恐怖し、最も分かり易い悪を作ろうと考えた。そして、その悪を自分達の教えに逆らう異端に被らせ、弾 圧しようと考えたのさ」
そこで、魔法のポットでお湯を沸かしに一端エヴァンジェリンはキッチンに入って行った。
そして、三人分のお茶を入れると、一口だけ啜って話を続けた。
「その悪に選ばれたのが、魔法使い達だった」
「そんな!?」
木乃香は目を見開いた。
権力の為に悪を被らされたと言う事に怒りを感じたのだ。
そして、イルゼも忌々しげな表情を浮かべた。
「カトリック教会は、魔法使い達の力を、悪魔の手を借りて神の力を横から盗む恐るべき異端だ。そう言って、国中の魔法使いと、そして、本来の目的で
ある異端教徒達を捕まえていった。その時代…と言っても現代にもいるんだが、エクソシストや吸血鬼ハンターで有名だったヴァン・ヘルジングのような 狩人、異端審問官と言った者達が教会に付き、多くの魔法使いもまた魔女裁判にかけていった。そして、魔女狩りが起きた時代に、魔女と同義にされた 異端教徒達の集会が、イコール魔女の集会と考えられるようになったのさ。聖遺物を穢し、子供を食し、女を陵辱する。そう言った事を異端教徒達は行 っていた。それを魔女のイメージに結び付けられてしまった。更には、その時代にヨーロッパを覆った悪しき風潮として『反ユダヤ主義』というのがあった」
「反ユダヤ主義?」
木乃香は首を傾げた。
「ユダヤと言うのはユダヤ人の事だ。頭が良く、現代の世界の経済の上位を占めているイスラエルに住むユダヤ教を信仰している民族だ。反ユダヤ主
義は「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、排他的な思想であり、イエス・キリスト殺害の張本人であり、金融業で財を成した」と主張し、忌々しい差別が横 行したのだ。そして、彼らの安息日を魔女の集会日と同義に定め、魔女が悪魔の儀式をしたり、集会を開く事を『サバト』と呼ぶようになった。あの時代 の魔女裁判はとかく人間の冷酷で残忍な面が際立った恐ろしい出来事だった。私も一度捕まってな…。だが、運の良い事に私に求刑されたのは火あぶ りの刑だった」
「火あぶり!?」
とイルゼは眼をこれでもかと見開いて驚き、木乃香は恐怖に顔を引きつらせた。
「運が良かったって何言ってんだよ!?」
わけがわからないという表情でイルゼはエヴァンジェリンを見た。
「運が良かったと言ったのは勿論、本物の魔法使いが求刑される魔女裁判の刑の中で最もマシだったと言う意味だ。確実に死んでしまう魔法使いでない
一般人に関してはそうでもなかったかもしれんがな」
「どういう意味?」
木乃香が聞いた。
「火あぶりと言うのはな、屋内では出来ないのさ。他の刑と違ってな。私は吸血鬼で、あの時代に既にかなりの力があったからそんなに苦労しなかった
し、普通の魔法使いでもたかが普通の火ではどうにもならんのさ。普通の火でも浄化の力はあるが、それは霊体の存在に対してだけだ。ちょっと、初歩 的な炎凍結術を施せば良かったからな。今は最大の魔法体系としてで始動キーから定型呪文を唱える方式が多いが、あの時代はむしろ、シングルアク ションの呪文を使う魔法体系が多かった。魔法発動体を自分の体の中に埋め込んでいる魔法使いも少なくは無かったした。後は、変身魔法で焼かれた 皮膚なんかを再現して苦痛の叫びを上げる振りをするだけさ。火あぶりの後は雑用係だけが残って後始末をする。だから、その間に雑用係りに暗示を 掛けて逃げるのさ」
少し、昔を懐かしむように語ると、そういえばと何かを思い出して口を開いた。
「私が捕まった時にウェンデリンとか言う変な魔女が居てな。火あぶりの感触に病み付きになったとかで何度も変身魔法で姿を変えて自分から魔女裁判
に掛けられに行った馬鹿者が居たよ」
その言葉に、イルゼと木乃香はなんとも言いようのない表情をした。
「まあ、そんな時代を経て、魔法使いの悪いイメージが完成してしまったのさ」
肩を竦めてそう言うエヴァンジェリンに、木乃香とイルゼはどこか納得いかない気がしたが、エヴァンジェリンが今度は人差し指のほかに中指を上げたの
で黙った。
「さて、二つ目の大前提だ」
そう言えば、それが今日の授業だったと木乃香とイルゼは今更になって思い出した。
「二つ目は言わなくても分かるかもしれんが、魔法と言うのは、争いや災いを齎すものだ。魔を知るだけでも魔は寄って来る。魔法を習えば嫌でもそうい
ったモノが襲い掛かってくる。それは、自分達だけではない。自分の身の回りのものにも及ぶ可能性がある。イルゼ」
突然エヴァンジェリンに名前を呼ばれ、イルゼはドキッとした。
「もし、学やフェイがお前が魔法の世界に関る事で巻き込まれたらどうする?」
その言葉に、イルゼは一瞬言葉に詰まった。
出会ったばかりとは言え、二人はイルゼにとって大切な友人だ。それが自分の為に傷つけられたら…。
だが、イルゼの迷いは一瞬だった。
「護る」
「ほぉ、それは?」
エヴァンジェリンはイルゼの言葉を待った。
どこか期待するように。
「どんな災いや敵や、争いが俺の周りで起きようと、俺は俺の大切な人を護る!巻き込んだとしたら、それは俺の責任だ。嫌われるかもしれない。それで
も、何が何でも護り切る!それが出来ないなら俺は死んだ方がいいって話だ」
迷い無く躊躇い無く言い切るイルゼに、エヴァンジェリンはそうかと微笑んだ。
「それも答えかも知れんな。だが、どうしても倒せない敵が現れたらどうする?」
エヴァンジェリンは意地悪そうにそう聞いた。
すると、エヴァンジェリンが驚くほど直ぐにイルゼは答えた。
「倒せるようになる!どんな強くても、護り切る。その時倒せないくらい強いのが居るなら、どんな事をしても倒せるようになる!!」
真っ直ぐと、エヴァンジェリンの瞳を見つめてそう言い切るイルゼに、エヴァンジェリンは悲しそうな眼をして見つめた。
「だがな、それは並大抵の事ではないぞ?」
「わかってる!でも、出来る出来ないじゃないんだ!やるかやらないかだ。だったら俺はやる!後悔なんてしたくないから!木乃香もばあちゃんも、学や
フェイだって!その為に強くなる!」
「そうか、お前はその道を選んで後悔しないか?」
「ああ!」
「そうか、なら何も言わんさ」
クッと笑ってそう言うと、木乃香にも問いかけた。
「木乃香はどうする?」
「おばあちゃん、本気で聞いてるん?」
ニコッと笑ってそう言う木乃香に、エヴァンジェリンはいいやと答えた。
「ただ、確認しようと思っただけさ」
「イルゼと同じや。うちも強くなる。誰もうちらの周りで泣かんでええように!」
「ああ、お前達がその道を行くならばいい。立派な魔法使いなどと言うのに憧れる愚か者共は、自分の手の届かない場所にまで手を延ばそうとするから
な。自分の身の回りだけならば、伸ばせないではなく、伸ばそうとしない限り届かないだけだ。」
「コクタス カリバス!料理よ温まれ!」
そう言って、少し温くなったお茶に、シングルアクションの初歩魔法を掛けた。
お茶は料理と言うのかどうかわからないが、魔法は見事に三人のお茶を熱々に温めた。
それは、別荘で初めて共に食事をしたときに見せた呪文だった。
そして、お茶を一口啜り、エヴァンジェリンは薬指を上げた。
「最後は、死に対する覚悟だ」
エヴァンジェリンが静かにそう言った。
それは、とても恐ろしく、底冷えするような響きを持っていた。
死。
それをイルゼと木乃香は一度だけ間近で感じた事がある。
イルゼと木乃香は黙ってエヴァンジェリンを見つめた。
「この死には幾つかの意味がある。自分の死、敵の死、仲間の死、他人の死。他人の死は誰でも簡単に忘れる事が出来るし覚悟するほどでもない。例
えば、ニュースで誰かが死んだとしても、次の瞬間にアニメなんかが流れたら、もうその死んだ奴の名前なんか覚えていないだろ?」
その言葉に、イルゼも木乃香も複雑そうに頷いた。
「だから、最初に覚悟するのは自分の死だ。殺される覚悟は戦いの中でしか出来ない。それに、死の恐怖に打ち勝てる人間はそれだけの精神の強さが
必要だ。そして、仲間の死。これは…、どれだけ覚悟していても辛いモノだ。だが、仲間が死んでも振り返ってはならない場面がある。その時に仲間の死 を振り返らない強さが必要になる。そして、敵の死。これは、敵を殺してようやく固まる覚悟だ」
殺す。
その言葉に、木乃香とイルゼはつばを飲み込んだ。
木乃香とイルゼは既に経験している。
この学校に来た時に、異形相手とはいえ、その時は何も考えて居なかった。
だが、エヴァンジェリンの言葉で、その時のことを思い出した。
「…、お前達がこの学園に来た時に戦った話は聞いている。だが、倒したといっても奴らは元の世界に帰っただけで正確には殺したわけじゃない。だか
ら、気に病むな」
心配そうにそう言うエヴァンジェリンに、なんとか木乃香とイルゼは顔を上げてうんと頷いた。
「はっきり言って、こんな覚悟は固めさせる気はない」
すると、エヴァンジェリンは突然そう言い切った。
「え?」
それに木乃香は目を丸くした。
「大前提と言ったがな、何も殺しを絶対しなくちゃいけないって事はない。殺しは、一回やっただけで二つに分かれてしまうからな。一つは完全に駄目にな
ってしまう方、快楽殺人者になってしまったり、何も言葉すらまともに喋れなくなったりする。そして、もう一つは、自分の命が驚くほど軽く思えてしまう方 だ」
「え?」
その言葉に自嘲の響きを感じてイルゼはエヴァンジェリンを見た。
「別に、死にたいと思うわけじゃない。だがな、自分の命が優先できなくなってしまう事があるんだ。例えば、怒りで形振り構わずと言った感じに自分の命
を燃やしてしまったりな」
そして、エヴァンジェリンは手を叩いた。
イルゼと木乃香はビクッとして顔を上げた。
「もう10時になってしまった。今日はこれでお仕舞いだ。明日は陰陽術についての授業だ。呪文なんかを使っての修行は土日にやる。それでいいな?」
「え?あ、はい!お願いします!」
「あっ!お願いします!」
改めて頭を下げる二人に、エヴァンジェリンは優しく笑いかけて二人を寝室に促した。
授業のせいか、まったく寝付けずにいる二人に簡易な催眠魔法をかけ、エヴァンジェリンは、一人静かに夜の帳に出かけていった。
Side-???
常闇の森の中、疾走する一つの獣の影があった。
鋭い牙を獰猛に見せびらかしながら、獣は油断無く周囲を見渡しながら迫り来る魔刃に備える。
戦闘が開始されたのは日付が変わる前。
多くの人間が入り乱れるその日に合わせ、学園に押し入ろうとした魔法使いの使役したのは、常の隣の世界の住人達ではなかった。
召還したのは鬼ではなく鬼(キ)だった。
鬼(キ)は、鬼とは違う。
死者の霊を人々は鬼(キ)と呼ぶ。
元は、中国の信仰であったそれは、人は死ねば誰もが鬼(キ)となりうる。死んだ時のままの姿で現れるのだ。
霊は大概にして、死後に遺体を清められれば健康な姿で存在できる。
だが、遺体が傷つけられると輪廻の輪から外れ、悪鬼と化してしまうのだ。
故に、中国では清めず、傷つけずに土葬するのが習わしだ。
鬼や悪魔は、彼らの存在する世界から契約によって縛り付ける事で召還される。
だが、鬼(キ)は違う。
召還ではなく作り出し、使役するのである。
鬼(キ)の体を意図して傷つける事で、霊を悪鬼へと変貌させ、魔法によって配下とする邪法。
だが、悪鬼になったとしても、今宵に麻帆良学園を襲撃した鬼(キ)達の姿は異形その者だった。
悪鬼と言えど、例え遺体をどれだけ陵辱しようと獣の様に変わり果てる事はない。
遺体が損壊した時点で悪鬼となり、姿が固定されるからだ。
故に、鬼(キ)は醜い死体の姿をする事は多くあるが、牙を持ち、全身を血に塗れた毛が覆い、鋭い爪を持つなどありえないのだ。
それは、生前に魂を破壊された人間だったのだ。
魔法使いの中には、人を使い、恐ろしい実験をする者もいる。
歴史を見れば、彼の『青髭』ジル・ド・レイは1500人もの幼子を黒魔術や錬金術の生贄にした。
堕落の魔王アレイスター・クロウリーは、薬や性行為などによる魔術の研究の為に洗脳や多くの生贄を使った。
多くの魔法は恐ろしい人体実験を超えて現代に残されてきたのである。
その獣達もまたそう言った人体実験の犠牲者達だった。
その日の麻帆良学園の魔法先生や魔法生徒達は神経を研ぎ澄ませていた。
新学期の始まりに限らず、人の出入りが多く学園結界の効力が下がる日には襲撃者が増えるのだ。
そして、彼らが見たのは人体実験の被害者の成れの果て。
生前に魂を陵辱されつくし、死後も遺体を損壊された哀れな存在。
だが、その事に気が付くのは一部の者だけだった。
戦闘を多くこなす神多羅木や、葛葉刀子と言った魔法先生やその日、イルゼと木乃香が眠ったのを見計らって外に出て警備員として近右衛門と共に戦
闘に出ているエヴァンジェリンと共に戦う近右衛門だけだった。
「まったく、趣味の悪い事だ」
サングラスを掛けた若々しい長髪の真っ黒な背広を着込んだ神多羅木は忌々しげに次から次に襲い掛かる悪鬼を切り裂いていった。
だが、鬼や悪魔と違い、操られた犠牲者と言う認識しか持てない神多羅木は彼らを操る魔法使いに憎悪した。
倒しても倒しても、悪鬼は元の世界に還るという事はなく、魔力が供給される度に恐ろしい悲鳴を上げ、凄まじい苦痛に顔を歪めて蘇生する。
首を刎ねても、全身を細切れにしても同じだ。
神多羅木は胸中で血を吐く思いで誰に言うでもなくすまないと言って無詠唱の斬撃を放ち続けた。
「こんな事…」
二十歳を向え、今年に麻帆良に赴任して来たばかりの刀子は、入り込んだ敵の多さに圧倒された。
そして、すぐに神鳴流として授かってしまった知識を恨んだ。
今、自分が切り裂いている存在を知ってしまったからだ。
死後も、自分達に殺され続ける、それがどれだけふざけた事だろう。
刀子は霊核を破壊するわけにもいかずにただ敵を切り裂くばかりだった。
誰かに、自分と同じ思いをさせたいと暗い欲望を持ちながらも、誰かに言えば、まだ精神的に未熟な生徒達や、潔癖主義者の魔法使い達は使い物にな
らなくなってしまう。
刀子は只管に切り続けた。
「おい、爺ぃ。どうする気だ?」
敵の最も多い最前線で近右衛門と共に悪鬼を攻撃し続けるエヴァンジェリンは近右衛門に顔を向けずに叫んだ。
「くっ、リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!!」
エヴァンジェリンは、迫り来る悪鬼に魔法薬を投げつける。
「氷の精霊21頭。集い来たりて敵を切り裂け。『魔法の射手・連弾・氷の21矢』!!!」
空気中の水分が魔法薬によって加速された魔力によって凝結し、氷の刃となって悪鬼を切り裂いていく。
「おのれ…、エヴァンジェリンよ、しばし任せられるか?」
近右衛門は凄まじい殺気を撒き散らしながら悪鬼を吹き飛ばし続けながらエヴァンジェリンに首を向けずに聞く。
「5分、それ以上は魔法薬が足りん…」
忌々しげにそう言うエヴァンジェリンに、近右衛門は十分じゃと答えた。
そして、近右衛門は一瞬にして戦線から離脱すると、呪文を唱えた。
「セクタス・サンクタス・ベネフィクス」
始動キーを唱え、近右衛門は朗々と長く静かに呪文を唱えだした。
空中に浮かぶ近右衛門の詠唱を目にした魔法使い達は敵味方関係なく驚愕した。
近右衛門が実際に戦うのを見るのも珍しいが、それ以上に、近右衛門が詠唱を必要とする呪文を発動する事事態がとてつもない事なのだ。
徐々に、空中に魔力が集中し、近右衛門の目の前に真紅と紫の入り混じった光が人間の眼の様な図形を描き出した。
「魔王の眼(オニス・ム・オクラス)」
近右衛門の詠唱が終了した瞬間、世界を真紅のベールが覆いつくした。
戦闘中の魔法使い達には確かにそう思えたのだ。
そして、全てを見透かされる気がして、全てを支配されている気がした。
『魔王の眼』は、魔法の中でも最も古い魔法の一種だ。
呪文の詠唱は長いが出来なくもない程度、リスクとして多量の血を使用者は失うが死ぬ事は無いが、その習得難易度は最大レベルに達するほどの魔
法だ。
何故なら、魔王の眼を制御する事は生身の人間にはほぼ不可能だからである。
魔王の眼の視界はどんな隠匿術をも凌駕し、見つけ出す。
「見つけたぞい」
近右衛門は、魔王の眼の先に、悪鬼を使役する魔法使いを見つけ出した。
そして、魔王の眼を解除すると、一瞬でその者の目の前に移動した。
「これほどに魂を陵辱した上に死後にまで更なる愚考で魂を汚そうとはのう」
悪鬼を使役していた魔法使い達は誰も喋る事が出来なかった。
あまりにも凄まじ過ぎる殺気に、気を失う事すら出来ずに既に己の中で何百と殺された気がした。
「ま、まってくれ。殺す気かよ!?」
リーダーであろう男がなんとか声を上げたが、近右衛門は無表情でその男を見下ろした。
「殺すわけなかろう」
その言葉に、男達は安堵の表情を浮かべた。
だが、次の瞬間にその表情は凍り付いた。
「お主達には情報を貰わんとならんからのう。むしろ殺してくれと懇願する事になるやもしれんぞ?」
そして、近右衛門は男達をどこかに転移させた。
勿論、男達から悪鬼達への使役権を奪い、悪鬼達を解き放ってからだ。
一部が欠けた月を見上げながら、エヴァンジェリンは何かが起きているのを感じた。
「ふむ、六年前を思い出すわい…」
近右衛門の洩らした言葉にエヴァンジェリンはん?と首を傾げた。
「なんの事だ?」
エヴァンジェリンの問いに近右衛門は眼を細めて答えた。
「一時期のう、こうして悪鬼が大量に増えた事があったのじゃ」
「?聞いた事がないぞ」
エヴァンジェリンは怪訝な顔をして近右衛門に聞くと、近右衛門はうむと答えた。
「あれは解決した筈なんじゃ。青き使い魔と共に一人の男が事件を解決した。サウザンドマスターの存在が大きく、事件自体も大きく扱うにはあまりに残
忍な事件じゃったから表にはでんかったのじゃが」
「?その男の名は?」
エヴァンジェリンの質問に近右衛門は遠くを見るように答えた。
「さてのぅ、あの男は神出鬼没じゃからな。ほれ?お主の隣に今日入った少年を知っておるか?」
エヴァンジェリンは近右衛門の言葉にああと答えた。
「フェイの事か?なかなか気に入っているぞ?少し変ってはいるが」
フェイは女装しているのを除けば普通のいい子である。
エヴァンジェリンは、近右衛門が何を言い出すのか警戒して鋭い眼差しを近右衛門に向けた。
近右衛門はうむと答えた。
「あの子と、それからイルゼのクラスに入った何人かはあの事件の被害者での…」
「?!どういう事だ?!」
エヴァンジェリンは目を見開いて近右衛門を睨み付けた。
「彼らは記憶を封じられてそれぞれの家族の元にあの男が連れて行ったのじゃ。あの子らはそれぞれ実験の後遺症を持っておる。命に関るものではな
いのじゃが…。それでも、何かしら症状が出るとあの男は言っておった」
「…、その男は誰なんだ?それに、フェイの奴は大丈夫なのか?」
「わからん…後遺症について、詳しくは語らなかった。ただあやつは自分をテイマーと自称しておった。あやつの解決したあの事件は謎が多すぎる。あや
つは何も言わずに姿を消した。そして、あの時同様に再びこれほどの鬼(キ)が現れおった…。何かが起きようとしておる」
それに、あの男自身謎の塊の様じゃった、そう言いながら近右衛門は鋭く天に輝く月を見つめた。
「エヴァンジェリンよ、あの子達から眼を離さんでおくれ。これは老いぼれの数少ない特権でのう。長年生きた勘が警鐘を鳴らしておるのじゃ。あの子達
はこの事件に巻き込まれると、いつかはわからん。じゃが、この事件はイルゼがこの世界に来た事と何か関係があるのではないか…。そう思えて仕方な いのじゃ。電子の生命体が肉体を持った。その意味が、何なのか。多くの謎がこの事件の果てにあるような気がしてならんのじゃ。あの恐るべき愚か者 共を絞り上げても恐らくは真実など聞けんじゃろう」
そう言って、近右衛門は静かに後ろを振り向いて歩き出した。
「最後に教えろ爺ぃ。お前、あいつらを私の弟子にするように詠春を仕向けたのか?」
「いいや、あれは婿殿の英断じゃ。お主を選んだのはあやつとあの子達じゃよ。わしにお主の事を信じさせたのがあの子達とお主自身であるようにのう」
そう言って、近右衛門は夜闇に消えて行った。
エヴァンジェリンの姿も何時しか消え、戦いの後始末をする魔法先生や魔法生徒だけが後に残った。
事件は小さく芽吹き始めた。
それは、全てが集約する長い道のりのスタート地点なのであった。
![]() |