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第49話『それぞれの過去・後編 〜エヴァンジェリンと近右衛門〜』
『思考する魔森(アリヴェニルヴァ)』は、魔法世界や魔法生物世界が『アルハザードのランプ』によって開拓される以前に、魔法生物研究者である『アー
ブラハム・マッケンジー』が研究と隠匿の為に自分以外の人間を締め出すように森自体に数多の呪を掛け、魔に属する存在であるグール、人狼、吸血 鬼、怪鳥、キメラ、幻獣を解き放った地である。
だが、アーブラハム自身が研究の途中に自身が研究し作り出したキメラによって殺害され、現在は時間が経ちながら森自体の力が失われつつある。
それでも、並みの魔法使いならば決死の覚悟をしなければならない。
そして、エヴァンジェリンは吸血鬼である。
魔の存在として認められ、ざわめいた森は静けさを取り戻した。
陽光は木々の合間から漏れる程度の僅かなものだが、それでもエヴァンジェリンには十分だった。
龍の話によれば、グールと言う種族は人を嗜食する欲望が強い存在であり、森の外側に潜んでいる可能性が高いと言う。
人が入って来れない場所であるからこそ、警戒心は薄いと考えて良い。
この森には、現在生息しているのは知性の無い魔物が殆どだ。
何故なら、知性ある者は森の加護は徐々に薄れているのを悟り、安住の地を求めて去るからである。
コリン・ビーンがグールになったのは20年前である、徐々に知性が無くなっていくグールと言う種族にさせられた彼は、元より獣の本能など持ち合わせて
いない。
エヴァンジェリンの城を襲った当初、彼は母親から伝授された『慰魂の香』と呼ばれる魔法具を使った。
本来は、彼の母がスコットランゴ王の400人の軍勢に使おうと出した物だったのだ。
だが、彼はそれを奪い去ってしまった。
『慰魂の香』は、本来は浄霊の為であり、救われぬ魂を穏やかにする為の香だ。
だが、彼の使った香は魔法の力で効力が上がり、生者に浴びせると深き眠りに誘われる。
死と同義になるほどの眠りであり、魂と肉体との繋がりが恐ろしい程希薄になってしまうのだ。
彼は、元より知性が乏しかった。
生まれた当初から人を食べる為の知識と魔法に関する知識しか親から貰えなかったからだ。
故に、10年前に残っていたのはグールとなった時の儀式と母親から奪った香の使い方だけだったのだ。
エヴァンジェリンは、只管に感覚を研ぎ澄ませながら森の中を突き進んでいく。
大気に満ちるマナは濃い。
それは、この地に生きるもの、そしてこの地自体が関係している。
エヴァンジェリンが龍に教わったのは簡単な魔法の基礎だけだった。
当時は魔法体系は一つや二つではなかった。
『刻印』や『紋章』に術式を刻む事で一瞬にして強力な魔法を操ることが出来る魔法。
これは、リスクとして刻印や紋章に魔力を流す為に体に刻まなければならず、体が拒絶した場合は高い確立で死に至ってしまう。
『心霊魔術』と呼ばれる魔法は、『ガンドの魔術』や『魂装(後のスパーク)』、『超能力』、『霊能力』がこれに当たる。
これは、魂を切り離したり干渉したりする魔法だ。
勿論、魔法や魔術にはすべてに置いて必ずリスクが存在する。
魂に干渉するには卓越した自己制御と、強靭な意志の力が必要なのである。
何故なら、切り離した魂が戻って来なければ、その者の寿命が縮んでしまうからだ。
当然だろう、魂とは人の生きる為の源だ。
それが削れられた場合に、修復されるには限界がある。
魔力の強い魔法使いの寿命は総じて長いが、魂を切り取ったまま失ってしまった場合はその魔力が激減してしまうのだ。
何故なら、魔力の源は魂に寄るからだ。
魂の資質が保有魔力を決める。
魔力を増やす事は、それ即ち魂を鍛える事に他ならない。
『精霊魔法』と呼ばれる魔法もある。
これは、後の『始動キー魔法』であり、研究が進められている最も効率の良い魔法である。
固有の自己と精霊との絆を示し、精霊の力を魔法に変貌させる為に精霊との間に呪文と言う名の橋渡しを用いて魔力と言う代償を渡す。
呪文は、精霊との契約が完了した時点で誰もが使える様になるのだ。
使う者が多ければ多い程に魔法としての体系は完成していく。
そして、他にも数多あるが『魔法発動体』を必要とせずに魔法を操ることが出来る吸血鬼と言う種族に成ったエヴァンジェリンが教えられたのは、その中
でも『原初魔法』と呼ばれる物だ。
後に、『シングルアクション魔法』と呼ばれる様になる。
原初魔法は使い手が成長するほどに力を上げていく魔法だ。
そして、多種多様な用途に使うことが出来る。
この魔法は、『原初人間』である『アダム・カドマン』が『知恵の実』を食し、神より神の似姿の一つである巨人性を失った代わりに得たものだ。
己が知識、技術、経験、成長によって覚醒することが出来る原初の魔法。
だが、人の身のままで原初魔法に手を伸ばす事は非常に難しい。
専用の魔法発動体である『杖』に選ばれる必要があるのだ。
卓越した霊力や魔力を持つ木と神に誓い気高き聖獣の一部を、使用者に合わせて作らなければならない。
そして、それでも杖に選ばれるにはその者の魂が強靭であり、気高くなければ杖は決して選ばない。
そして、原初魔法を知る者自体が少ない。
古き知恵であり、知る者は隠匿する。
原初魔法は、使い手のみが継承させる事が出来る。
そして、継承させる相手は選ばなければならない。
何故なら、原初魔法は使い手を殺す事で相手から相手が培ってきた叡智と力を自身の物に出来るからだ。
故に、使う者の個体自体が少ない。
エヴァンジェリンに龍は、10年の年月の間に原初魔法の基本を叩き込み、吸血鬼となり膨大に膨れ上がった魔力の制御を教えた。
そして、全ての最低ランクの呪文と幾つかの派生した下級呪文を継承させ、エヴァンジェリン自身の属性である闇と氷の術を重点的に教えた。
制御の修行は氷の力で習得した。
更に、エヴァンジェリンは闇の魔力をより戦闘に向く様に研究していた。
龍が教えるのは殆どが身を最低限に護れる程度だ。
故に、エヴァンジェリンはより攻撃に特化した闇の属性を研究した。
そして、独自に『精霊魔法』を調べ、龍によって『始動キー』の登録のみをしてもらった。
精霊魔法を取り入れる考えは、あらゆる魔法体系で一番魔法の開発に適している。
何故なら、精霊との契約は、自身の眠っている力を覚醒させたり、理論を術式として描く以上に緻密に構築することが出来るからだ。
10年間の内のおよそ7年間を研究に費やし、原初魔法の修行との両立によってエヴァンジェリンの魔力は増加していた。
狂気に駆られた様に研究と修行に打ち込む彼女の心に巣くったのは絶望感を紛らわし、復讐に気持ちを傾け続ける為だった。
そして、一つの理論が完成に近づいた。
後は、実戦で試すのみだったが、グールであるコリン・ビーンは知性を失い、獣としての本能すらない存在相手には必要ないかもしれない。
エヴァンジェリンは苛立っていた。
己の10年間を、復讐の為に力を練り上げる事に使った。
だと言うのに、その相手は渡された銃だけで片が付くと言う。
それが面白くなかった。
殺すならば残酷に苦しめたい。
それは甘美なる誘惑だった。
エヴァンジェリンは龍のくれた魔法によって中が広くなっている袋に銃を仕舞い、完成間近の魔法である『闇の魔法(マギア・エレベア)』を何時でも使える
ように準備した。
闇の魔法とは、即ち『吸収の魔法』だ。
既に、幾つかの魔法体系に置いては『吸収』は幾つかの原点の一つと定められている。
『与える』、『奪う』、『放つ』、『狙う』、『加速』、『減退』、『増加』、『減少』、『攻める』、『護る』、『癒す』など、多くの人間の行動がある。
それを基本として魔法は構築される。
そして、エヴァンジェリンが目を付けたのは『奪う』だった。
魔法とは力だ。
そして、幼き身を強化する方法として純粋な強化の魔法がある。
ならば、魔法として構築された魔力や精霊の力を取り込めば純粋な魔力以上に力を得られるのではないだろう、エヴァンジェリンはそう考えたのだ。
そして、その為に『精霊魔法』の次に目を付けたのは『心霊魔術』だった。
魔法とのして構築された力を自身の力に変換するには、魂、つまり霊体と同調させる必要があると言う結論に至ったのだ。
だが、心霊魔術の習得は簡単にはいかなかった。
当然だろう、心霊魔術には自己制御、つまりは自身の感情や存在の全てを制御しなければならないのだ。
絶望感と復讐心に駆られたエヴァンジェリンには習得できる魔術ではなかったのだ。
修行方法を確立したものの、自分ではどうあっても習得できない事を知ったエヴァンジェリンは、最後に『刻印魔法』に目を付けた。
魂と魔法の融合に適した方向性を定める為だ。
龍は自分で調べる限りにおいては無数の書物をエヴァンジェリンに見せてくれた。
そして、魔法を魂と融合する為の術式を解明し刻んだ。
刻むと言っても、刺青とは違う。
『刻印魔法』は、専用の魔法具に術式を封じ込んで体に植えつける。
そして、恒久的に使える物と短期間で消滅してしまう物がある。
エヴァンジェリンは魔道書の形の『刻印移植具』を龍から貰い、術式を編みこんだ。
術式は短期間で消える様に設定してある。
完成すれば、恒久的に使える様に変えるつもりだ。
そして、形になってきた『闇の魔法』の術式を、魔道書を開いて体に移動させた。
刻印となった術式は渦を巻くように体中に侵食し、エヴァンジェリンの体に『精霊魔法』の覚えた数少ない内の一番強い魔法である『闇のサギタ・マギカ3
本』を取り込んだ。
だが、体への負担は予想以上に強かった。
吸血鬼の体だからこそギリギリ耐えることが出来るレベルだった。
「ぐ…」
苦しげに呻きながらも、エヴァンジェリンの肌は浅黒く光を放った。
『闇のサギタ・マギカ3本』が、エヴァンジェリンの体の中で暴れている。
だが、その苦痛を糧にして、エヴァンジェリンは憎悪を募らせて森を進んだ。
だが、コリン・ビーンが見つからないままで時間だけが過ぎ去っていった。
闇の魔法は何度も解除され、その度に苦痛を感じながら発動する。
そして、天を夜闇が支配し出した時、エヴァンジェリンは既に限界に近かった。
全身を苛む痛みはあまりに酷く、肩で息をしながら、目は血走っている。
そして、ようやく見つけることが出来た。
そこは、『思考する魔森(アリヴェニルヴァ)』の一番近い村に一番近い境界線だった。
あまりにも醜い姿だった。
肌は鼠色で、頭は禿げ上がっている。
背中は酷く曲がっており、痩せぎすでほとんど皮と骨だけだった。
そして、全身は傷だらけで火傷の痕や切り傷が無数にあった。
恐らくは人間を襲おうとして返り討ちにあったのだろう。
知性も何も無い、ただの哀れな存在に成り果てたコリン・ビーンが襲える人間など無力な赤子程度なものだろう。
そして、エヴァンジェリンは凶悪な笑みを浮かべ、瞳に狂気を宿し、闇の刻印はぞの恩恵をエヴァンジェリンに与える。
苦痛と言う代償を糧として…。
それは、勝負や決闘、殺し合いですらなかった。
一方的な殺戮。
故に、エヴァンジェリンは驕ってしまった。
只管に殺さない様に嬲り続けた。
無数の斬撃を与え、水の魔術で溺れさせる。
闇の刻印がエヴァンジェリンに齎す恩恵とは、即ち搾取である。
光を超える迅雷の瞬発力、疾風の如き華麗な速さ、苛烈なる炎の攻撃力。
魔法の属性、魔法の種類によって、『闇の魔法』の特性は多種多様に変化する。
搾取の特性を持つ闇の属性、その基本魔法である闇のサギタ・マギカ、それが齎す恩恵は『命の搾取』だ。
攻撃する度に相手の命その物を奪い去る。
魂その物への攻撃である。
凄まじい激痛は、それをもって気が狂うのを許さない。
何故なら、肉体の痛みではないから。
魂の痛みが少しの攻撃ですら、身を守る事を忘れた哀れなグールには無限に連続する死と同義だった。
そして、闇の魔法が解除する寸前に、エヴァンジェリンは最後に闇のサギタ・マギカ3本を開放した。
サギタ・マギカは、魔法や気を扱える者ならば、熟練すれば拳一つで弾く事すら可能だ。
だが、威力はそれでも威力の低い爆弾レベルだ。
余程の運が無ければ、ただの一撃ですらも生き延びるのは難しい。
そして、3本の暗黒の矢がグールのコリン・ビーンに命中し、全てが終わった。
そう…、エヴァンジェリンは確信していた。
だが、一つ間違えた。
グールとなったコリン・ビーンは知性も野生も無い。
ただの無能だ。
だが、それでも闇の眷属であり、魔人の一種なのだ。
それは、本能でも理性によるものでもない、ただの反射だった。
グールは闇のサギタ・マギカ3本を押さえ込んだのだ。
そして、それを闇の魔法の連続で限界近くまで体力を消費したエヴァンジェリンに放った。
エヴァンジェリンは、動けなかった。
体の痛みもあった。
披露もピークに達していた。
だが、それ以上に驚愕していたのだ。
それまで、されるままに嬲られていた獣が己の魔法を押さえ込み、弾き返した事に。
そして、闇の魔法はエヴァンジェリンに直撃した。
吸血鬼としての不死性が無ければ、確実に死んで居ただろう。
エヴァンジェリンの肉体は右半身がバラけた。
そして、あまりの痛みに頭の中は真っ白になり、目は充血しきり血の涙が溢れた。
そして、最後の力を振り絞り、エヴァンジェリンは徐々に再生する右腕を無視し、左手で袋から銃を取り出した。
「死ねぇ……!!」
銃声が響く。
銃は、その銃身も弾丸までもが『真銀』で出来ている。
『真銀』とは、月の魔力を封じ込めた銀の事だ。
月は魔に属する者に力を与える。
そして、銀は聖なる力が宿っているとされる信仰が西欧においてある。
魔に属する限り、『真銀』はまさしく必殺の凶器なのである。
真銀の弾丸は見事にコリン・ビーンに命中した。
それと同時に、既に魂のレベルでボロボロにされていたコリンは一瞬にして塵灰と化した。
そして、エヴァンジェリンは肉体が完全に再生するまで、ついに皆の仇を打ったのだと実感した。
だが、それだけだった。
エヴァンジェリンの心にはただ穴が空いただけだった。
復讐の相手を殺してしまい、感情はただ只管に絶望と悲哀のみだった。
あまりにも辛く、そして苦しく。
エヴァンジェリンは、肉体が再生されると森を出た。
そこは、なんと彼女の預けられた領主城が見渡せる場所にあった。
『思考する魔森(アリヴェニルヴァ)』は、常に場所を移動している。
だが、森を見つける事は不可能に近い。
強力な結界が張られ、余程強力な魔法使いでも見つける事は難しい。
そして、誰も好き好んで見つけたいと願う場所でもなかったのだ。
そして、コリンは偶然にもこの地に滞在していた森に入り、そこが安全だと知ったのだろう。
『思考する魔森(アリヴェニルヴァ)』が生まれたのは既に1000年以上前であり、数十年単位で数キロを移動する程度なのだ。
そして、エヴァンジェリンは城を見つめると、涙を零し背を向けた。
二度と戻る事は無いだろうと。
吸血鬼となった自分は、実の両親には会えないだろう。
会ったとしても化け物扱いを受けるだけだ。
ならばいっそ、自分もあの城で死んだ事にした方がいいだろう。
そう考え、エヴァンジェリンは旅に出た。
一つの街に滞在する事は稀で、ヴァンパイア・ハンターが嗅ぎ付ける事もあった。
3年後には闇の魔法が完全に完成した。
だが、その頃には心霊魔術を僅かに操れるまでに心の制御が操れる様になっていた。
そして、刻印を封じ込めた魔道書は、自身の研究の成果としてだけ保存しながら世界中を渡り歩いた。
15世紀には各地で魔女狩りが盛んとなり、一度は火炙りにされた事も在った。
その時に、変わり者の魔女である『ウェンデリン』と出会ったりもした。
15世紀末には、南洋の孤島に城を構え、力尽きようとした時に動き出したチャチャゼロと出会い、共に歩んだ。
チャチャゼロの事はエヴァンジェリンにも分からなかった。
だが、何世紀も彼女を助け戦ってくれた人形を、エヴァンジェリンは何よりも大切な絆として大事にした。
口が悪く、彼女を貶したりもしたが、それは冗談であったり、彼女が沈んだ時に叱咤する為だった。
そして、時折アルビレオと名乗る謎の青年と出会った。
最初に出会ったのは14世紀末の魔女狩りが始まる少し前だった。
彼は神出鬼没で、時折現れてはエヴァンジェリンを時にからかったり、時に助言したりした。
その、未来を見透かした様な話し方が、エヴァンジェリンには時折恐ろしくなる事もあった。
彼は時折恐ろしい災厄が彼女の近くで起きるだろうと忠告しに来るのだった。
だが、彼女は信じず、故に魔女狩りやヴァンパイア・ハンターに襲われる等があり、彼女は嫌が応にも彼の言葉を聞き入れる事になった。
ただ、アルビレオ・イマと言う名前すらも偽者であると冗談の様に言う彼の言葉は、エヴァンジェリンは疑わなかった。
彼の存在全てが胡散臭い。
それが、彼に対するエヴァンジェリンの考えだった。
19世紀に入り、エヴァンジェリンは龍の家の様な建築が存在すると知り、日本にやって来た。
そして、甲賀流忍術を受け継ぐ甲賀流忍術第14世である『藤田 西湖』と出会った。
彼は、偶然に浜辺で出会ったおりに、エヴァンジェリンの人とは違う異質を見抜き、エヴァンジェリンが人の振りをして観光しているのだと聞いた。
エヴァンジェリン自身、藤田を只者とは思えず、戦う覚悟だったが、藤田は一言「惜しいな」と言った。
エヴァンジェリンが眉を顰めると、藤田はエヴァンジェリンの老いを知らぬ肉体は技の修練を積めば一つの極みに達する事が出来ると言った。
そして、エヴァンジェリンに体術を伝授した。
彼は、人とは異質であると知りながらもエヴァンジェリンを一人の弟子としてのみ扱った。
そして、エヴァンジェリンは長い歳月を掛けて研鑽を積み続けている。
1986年に、彼女は大勢のヴァンパイア・ハンターに襲われ、九死に一生をサウザンドマスターによって齎された、
一人旅だったサウザンドマスターに同行し、詠春等とも出会いながら短いながらも、彼女にとって暖かな時間を過ごす事が出来た。
僅か数ヶ月の同行だったが、彼女はサウザンドマスターを忘れることが出来なかった。
そして、2年後に麻帆良で再会し、彼女はこの地に縛り付けられたのである…。
映像が途切れ、五人と一匹が元の場所に戻った。
エヴァンジェリンは、何も隠す事無く全てを見せた。
自分が最初に殺したヴァンパイア・ハンターやコリン、その他の自分を襲った者を殺した事全てを。
彼女が経験してきた事は本来ならば到底子供に見せる物ではない。
だが、エヴァンジェリンは見せた。
拒絶するのも、嫌悪するのも二人に任せる。
これが最後の分岐点だ。
エヴァンジェリンは、既に自分が距離を取る事を忘れてしまった事を悟った。
今更、距離を取るなど出来はしない。
故に、本当に最後。
二人が拒絶したり離れたりするならば、それが最後になる。
エヴァンジェリンは、恐怖していた。
だが、後悔は無い。
そして、誰もが黙る中で木乃香とイルゼはゆっくりと立ち上がった。
そして、二人はエヴァンジェリンを抱き締めた。
何も言わない。
幾千の言葉を紡いでも無駄になってしまうほど、二人から思いが伝わる。
唯只管に、二人はこう言っているのだ。
――どこにも行かないで。
そして、エヴァンジェリンは抱き締め返した。
二人の頭はエヴァンジェリンの胸元の下辺りにある。
二人の頭を抱き締めながら、呆然とした様に、涙も流さずに只管、抱き締める。
言葉は無い。
必要が無いし、口を開けば出てくるのは言葉を形成しない声だけだ。
喉をどう動かせばいいのかを忘れてしまう。
近右衛門とさよ、レオルモンは何時しかその場を離れていた。
今は唯、ゆっくりと時間が過ぎるのを待つ。
近右衛門は、エヴァンジェリンの過去に少なからず衝撃を受けていた。
そして、誰にとも無く呟いた。
「世界とは…何と儘ならぬものか…」
その言葉に、レオルモンが目を瞑りながら答えた。
「…そうですね」
さよは、静かに涙を溢れさせ、それでも決して喚きはしない。
唯、理不尽な事など、世界中を見渡せばありふれた情景なのだろうなと思った。
そして、どれだけの時間が経っただろうか。
イルゼは言った。
「ばあちゃん…、俺さ…世界を敵に回しても…」
イルゼの言葉に耳を傾け、エヴァンジェリンは聞いた。
「ん?」
僅かに震える声で聞いた。
「俺は何が良くて、何が悪いかなんてわからない…。でも、ばあちゃんは俺にとって大切な人だ。だから…世界が相手になってもばあちゃんと一緒に居る
…」
そして、木乃香が口を開く。
「おばあちゃんの事、誰にも文句なんて言わさへん。誰にも何も…。その為に必要なら、うちは強くなりたい。おばあちゃんと一緒に居たい…」
エヴァンジェリンは、二人に聞きたい事は山ほどあった。
何故、自分を拒絶しないのか。
何故、こうも優しいのか。
何故、あれだけの恐ろしい現実を眼にしていながら心を強く持っていられるのか。
だが、どんな言葉にも意味は無い。
エヴァンジェリンには分かってしまった。
この二人の魂は、誰にも負けない輝きを持っている。
瞳に宿る光には一点の曇りも無い。
故に危うい。
この子達は自分を狙う者が来た時、その者が善であれ正義であれ、殺してしまうかもしれない。
二人は純粋だ。
殺人が平気になってしまう可能性すらある。
強くもあるが、どこまでも儚い存在になってしまうかもしれない。
故に、エヴァンジェリンは決意した。
二人を必ず護ると。
どれだけの犠牲も、どれだけの時間も、どれだけの自由も、どれだけの欲望も利用出来るならしてやろうと。
二人を鍛え、隠匿し、出来る限り優しい世界で生きられるように。
エヴァンジェリンの瞳に宿るのはどこまでも満ちる決意の光だった。
そして、エヴァンジェリンは近右衛門を呼んだ。
「さぁ、約束だぞ?」
その言葉に、近右衛門は確りと頷いた。
「お主の過去を見せてもらったんじゃ。約束を違えたりはせんよ」
慰めも、同情の言葉も塵芥と変らない。
故に、ただ誠意を見せる。
それだけが、近右衛門が見せられる彼女への気持ちだった。
真摯に、正義や立場ではなく、個人の思いを向けたのだ。
そして、近右衛門はさよを見た。
「これが、儂の一生じゃ。見てくれるかの?」
さよは優しく微笑みながら頷いた。
「うん…」
そして、近右衛門はレオルモン、エヴァンジェリン、イルゼ、木乃香の順に見渡した。
そのどれもが、真摯な眼差しを向けている。
「では、見せようかの…」
その瞬間、世界は光に包まれた。
そして、彼らはある少年の物語に足を踏み入れた…。
それは、霞んでしまうほどに遠い過去の記憶。
一人の少年が生まれたのは全くもって普通の家庭とは言えなかった。
家族は皆が人とは違う魔法使いと呼ばれる異質。
彼の両親はそれはそれは魔法を絶対と崇める魔法主義者だった。
そんな両親に反発して、彼は魔法使いの作り上げた学校の寮に入寮した。
そこで、5人の素晴らしい友に出会った。
一人は『相坂さよ』。
素晴らしくチャーミングで魅力的な女の子で、その優しさに近右衛門の心を満たしてくれた愛しい少女だった。
一人は『矢部雅彦』。
近右衛門と同じく魔法使いの家系に生まれた彼は、近右衛門とどこまでも意気投合し、学園内にその名を轟かせるほどの悪戯小僧だった。
一人は『ティファニー・エバンス』。
栗色のたっぷりした髪と、天使の様に可愛らしい彼女に、矢部はいつもメロメロになってしまうのだった。
一人は『コーネリアス・スプリングフィールド』。
勉強をこの上ない娯楽と考える変人で、後に誕生するサウザンドマスターは彼の孫だった。
最後の一人は『遠野茜』。
紅く長い髪の毛が印象的な少女だ。
食事や運動よりも勉強を優先するコーネリアスを心配し、叱咤して少しでも日の光の下で運動させようと躍起になっていた少女だ。
そして、時は緩やかに流れていく。
卓越した才覚に恵まれた近右衛門は、只管にさよの気を引きたかった。
そして、彼は闘争に溢れた魔法世界を立て直す為に立ち上がった。
そして、矢部、コーナリアス、ティファニー、茜の魔力を持つ4人が立ち上がった。
だが、さよは魔力を当時は封じ込められており、五人に付いて行くことが出来なかった。
それが、運命を分岐した。
近右衛門は、本当は理想などどうでも良かったのだ。
ただ、さよの心を引き寄せたかった。
それは、少年だった彼の純粋の愛から来る感情だったのだ。
だが、時は残酷な運命に彼を導いて行った。
最初に彼を襲ったのは『相坂さよ』の訃報だった。
彼女が空襲に巻き込まれたと聞いたのだ。
その時の彼の嘆きが共感できる者がどれほど居ただろうか…。
そして、それがまた一つ、彼の運命を分岐した。
それまで持っていた理想は、所詮は虚構に過ぎなかった。
一人の女の子を振り向かせたくて作り上げた理想の自分。
だが、彼女を失った時、彼に残ったのはソレだけだった。
縋る様に、彼女への思いの具現である虚構の理想は、妄執に成り果てた。
彼を止める友人の声は届かない。
何故なら、理想を追う以外に彼女に出来る事が思いつかなかったのだ。
なんの冗談だろう、世界の英傑は、その実唯一人の少女の為のヒーローに成りたかっただけなのだ。
そして、彼の運命を破滅に導く最後の一手が投じられた。
矢部雅彦、ティファニー・エバンス、そして彼らのたった一人の子供の訃報だった。
彼は謎の研究施設を調査していた。
だが、罠に嵌められたのだ。
そこは、味方の研究施設だったのだ。
矢部は自身が身を置く国の暗部を見つけてしまったのだ。
そして、彼は妻と子供共々実験の道具にされた。
それで、近右衛門の心は完全に凍結された。
一番大切な二人だったのだ。
相坂さよと矢部雅彦の存在は、近右衛門にとっての初めての光であり、それ以外の光は彼には決して届かなかったのだ。
魔法学校を立ち上げたコーネリアスと茜が、懸命に止めたが、近右衛門の心は磨耗の一途を辿る修羅道に落ちてしまったのだった。
只管に体を改造し、鍛え、修行し、薬に漬け込んだ。
人外が如き力を得るまでに、彼は只管命を掛け続けた。
どこまでも、自身の命を軽んじて。
そして、彼は一人の女性と結ばれた。
神代彩香、魔法の研究者であり、人の命を軽んじるクレイジーな研究者だった。
近右衛門を只管に戦闘機械として強くする事だけを追求し、彼の肉体をどれだけ酷使しようとも厭わなかった。
そして、彼の子孫を欲した魔法世界の者達によって、彼は望まぬままに彩香を抱き、子を孕ませた。
そして、それから数年後に『矢部雅彦』は戻って来た。
彼が戻って来たのは1960年になっての頃だった。
そして、彼によって告げられた言葉は残酷だった。
結果的に言えば、さよの魂ではなく幻影であり、矢部自身はそれを理解していた筈だ。
だが、恐らくは近右衛門を止める為、そしてさよの復活の為に仕組んだのだろう。
矢部は近右衛門にさよの霊が彷徨っていると告げた。
そして、彼の心は折れた。
当然だろう、彼女を思い、彼女への思いから只管に35歳と言う凡そ青春の全てを投げ捨てたのだ。
だと言うのに、彼女は縛り付けられ、地獄以上の苦しみを与えられている。
磨耗し切り、絶望し、生きる糧は、一重にさよを成仏させたいと言う願いと矢部と言う支えが在ってこそだったのだ。
そして、近右衛門は麻帆良学園の学園長に就任した。
前任の学園長が姿を消し、急遽統率することが出来る者が必要だったのだ。
だが、魔法世界の者達は反対した。
冷血な殺人機械と成り果てた近右衛門の功績は眼に見えるだけでも、まさに英雄と崇められるに相応しいモノだ。
そんな彼が、突然学園の理事に就任してしまえば、彼らは進行の的を失ってしまうのだった。
だが、近右衛門は圧倒的な力を見せ、他を黙らせた。
それだけの我侭を通すだけの力を有しているからだ。
そして、魔法世界は新たな英雄を欲する様になる。
近右衛門の様に身近な存在にしてはいけない。
只管に高潔であり、只管に高貴であり、只管に強い。
人々の理想を背負える存在を欲するのだった。
そして、時は流れる。
近右衛門の古き友であるコーネリアスと茜との間に子供が出来たのだ。
名は、『イアン・スプリングフィールド』。
彼の息子の伝説的な活躍は語るまでも無いだろう。
そして、近右衛門は緩やかな時の流れの中で、子供達の笑顔に少しずつ、磨耗した心を癒していくのだった。
傷つき、一度は折れた気高い羽は、再びの飛翔の時を待つかのように。
だが、再び飛び立つ時、それは嘗ての少女を振り向かせる為に立てた人々の笑顔の為などと言う虚像ではない。
本当に大事な存在を護る。
その為に飛び立つ日の為に、翼は少しずつ癒えて行くのだった。
近右衛門の過去の映像が途切れた。
さよは涙を溢れさせ、イルゼと木乃香は只管に呆然と近右衛門を見つめるのだった。
レオルモンは、人の心の深淵に心が揺さぶられ、エヴァンジェリンは黙したままだった。
そして、近右衛門が口を開いた。
「醜いじゃろ?」
自嘲する様に、悲しげに近右衛門は呟いた。
だが、イルゼの言葉は違った。
「どこが?」
その言葉に、近右衛門はギョッとしてイルゼを見た。
そして、エヴァンジェリンやレオルモンもだった。
だが、さよと木乃香は黙したままだった。
「なんで?醜いって言うのさ…。好きな人の為に頑張ったんだろ?それを醜いって言う人間なんか…居るわけないじゃん」
その言葉に、近右衛門の瞳はこれ以上無く開いた。
そして、木乃香が口を開く。
「こんなに人を好きになれるって、どう言っていいのかわからへんけど…凄いって思うよ?おじいちゃんは何十年も好きで居続けて、その為に頑張って来
たんよね?それを醜いなんて…言わんといてや…」
その言葉が、近右衛門にはどうしようもないほどの恐怖だった。
正義を振り翳しながら、実際はただの自己満足にも劣る自己の欲求でしか動かなかった自分を、二人は醜いと言わなかったのだ。
そして、自分の事を凄いと言ってくれた。
その中には、色々な気持ちが入れられていた。
そして、さよが近右衛門の手を握った。
「近右衛門君…ありが…とう…」
一言だけ、そう呟いた。
それ以上は喉から出なかったのだ。
だが、近右衛門は救われた気がした。
自分の人生が、認められた気がしたのだ。
そして、近右衛門は瞳から涙を溢れさせた。
自身の人生に意味を見出せなくなったのは何時の頃だろう。
どれだけの戦いを繰り返しても救いを与える所か殺すだけ。
国の掲げる正義に自ら踊らされ、自分の命を投げ出した。
心は冷え固まっていた。
だが、長い年月で解けた心は、素敵な温かさに包まれた。
そして、近右衛門は一筋だけ涙を流し、ニッコリと微笑んだ。
「儂の方こそじゃよ。さよちゃん。それに…皆もありがとう」
そして、暖かな時間が緩やかに過ぎていくのだった…。
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