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第7話『お別れ前夜』 追記
イルゼの東京行きが決定したのは、イルゼが中国拳法を学ぶことに決めた日から3日後の事だった。
蝉の鳴き声が障子によって欠片程度抑えられている大きな部屋で、詠春がイルゼに向こうの生活について説明していた。
向こうについた際に手配した師匠の道場は当初、宿泊を予定していた詠春の往年の知人の家から少しばかり遠かったのだ。それ故、新しい住居を手配
したのだが、子ども一人ではやはりマンションやアパートを借りることはできなかった。なにせ、イルぜは見た目は5歳の幼児だ。まともに考えられる大人 ならばまず一人で暮らすことを許すわけにはいかないだろう。
そこで、現在イルゼの世話係をしている女性、『宮野 麻耶』がイルゼと共に東京に行く事になったのである。
当初は、東京に住む魔法関係者の誰かに任せようかと考えたのだが、イルゼの正体が故に適当な人物が見つからなかったのである。
そこで手を挙げたのが麻耶だった。
麻耶は検査中もイルゼの世話をしており、実の弟や子のように思っていたのだ。
しかし、詠春としては、未だ10代の後半に移ったばかりの身空で子供の世話をさせるのには気が引けた。
だが、麻耶の決意が固い事を察し、納得したのである。
その事を伝えるとイルゼは若干目を潤ませて麻耶に顔を向けた。
「ありがとうマヤ姉ちゃん」
イルゼの感謝の言葉に麻耶ははにかみながら首を横に振りつつ言った。
「ええんや。うちが自分頼んだことやさかい。気にせんといてや」
「麻耶、私からもお礼を言わせてください。貴方には苦労をお掛けしますが、イルゼの事をよろしくお願いします」
詠春はそう言うと頭を下げ、麻耶はその詠春の反応に面を喰らって慌てながら言った。
「お、長!頭を上げてください!今回の事は私からお願いした事ですし、お礼を言うなら私の方なんですから」
その麻耶の言葉に詠春は黙って首を横に振ると口を開いた。
「それでもです。ありがとう」
「は、はいぃ」
恐縮してしまった麻耶は声が裏返ってしまった。
「向こうでもよろしくな!マヤ姉ちゃん!」
イルゼの言葉に体の緊張が解け、麻耶も頬を緩ませながら口を開いた。
「うちの方こそよろしゅうな、イルゼ君」
「おう!」
二人の様子を優しい表情で見ていた詠春が口を開いた。
「向こうでは一軒家を手配しました。向こうでは兄弟で通してあります。お金に関しては心配せずにクレジットカードをお渡ししておきますから自由に使って
ください」
「え?!でも!」
お金使い放題という言葉に麻耶は驚いた。
「上限二百万円まで使えます。名義は貴女の名前ですから後で資料と新品の印鑑をお渡しします」
「は、はいぃ」
二百万円という単語に麻耶は頭をクラクラさせてしまった。
「道場は手配した家から1km程離れていますから道に迷わないように注意してください。看板には『梁山泊』と右から左に向かって書いてあるのですぐに
わかると思います。失礼の無いようにして下さいね。」
「はぁい」
詠春の言葉にイルゼは右手を上げながら答えた。
「麻耶君」
「はい」
「イルゼはデジモンであり、今までこの山から出たことがないので世間に未だ疎い。ですので、しっかりと外の世界を教えてあげてください」
「はい!」
詠春の言葉に使命感を燃やしながら麻耶は元気よく答えた。
話が終わった後、麻耶は詠春に連れられて向こうに行く準備をしに行ってしまった。
明日に出立と言われたイルゼは木乃香と刹那の居る勉強部屋と呼ばれる部屋に向かった。
2日前から本格的に木乃香の陰陽術の勉強が始まり、刹那も付き合う形で学ぶことになったのだ。
イルゼが部屋の前に着いたとき、中からは女の人の話し声が聞こえてきた。
≪不動明王の呪文は覚えられましたか?≫
その声に木乃香の声が答えた。
≪はい!ナウマク・サンマンダ・バザラダン・カン!≫
それに対して女の人の声が喜色に溢れた声で木乃香を褒め称えた。
≪素晴らしいですお嬢様!≫
忙しそうだな…。
中の話し声から取り込み中だと察したイルゼは自室で荷物をまとめるためにその場を離れた。
木乃香と刹那は巫女の『前田 妙』に障壁や結界について教えられていた。
基本的に木乃香には攻撃魔法の適性は薄いのだ。
最初に行った魔法に関する適性テストにより、召喚、癒術、守護の3つの力に適正があることがわかった。
適性テストは魔法界から通販で取り寄せた『魔法特製識別君』という、少し怪しい名前のマジックアイテムによって行われた。
このマジックアイテムは魔法界でもかなりの信頼性を得ている『Mr.ロンドウェルの魔道具問屋』という大手メーカーが売り出しているので安心して使えた
のだ。
ネーミングは怪しいが…。
ちなみに、刹那は雷と炎に適正が見られた。
神鳴流は気を主に使う流派だが、その奥儀には魔力を使うモノがあり、適正にあった奥義を一つだけ選択肢極めるのだ。
木乃香は攻撃手段としては符術で代用することにし、符の解放呪文を覚えるだけに止め、障壁や結界の術を重点的に教わることになったのだ。
「ええですか?結解言うんも数は一つや無いんです。今日お教えしますんは十八道法の結界言います」
「十八道法?」
妙の言葉に木乃香が首を傾けた。
そこで妙は刹那に顔を向けた。
「そいでは刹那はん、十八道法については説明出来やりますか?」
唐突に矛先を向けられた刹那は体を緊張させつつ答えた。
「十八道法は真言宗小野流の四つの行の一つで十八の業からなります」
「正解や、よく勉強し取るな。偉いで」
妙に褒められて刹那は嬉しそうに頬を右手で掻いた。
「せっちゃん凄いなぁ」
木乃香も感心したように刹那を見た。
「ありがとこのちゃん」
はにかみながら刹那が礼を言うと、妙が三枚の札を妙と木乃香と刹那の間にある小さな机の上に広げた。
「これが十八道法の十三の業である結界に使う三枚の符ですわ」
そう言うと妙は一番左の符を指差した。
「これが馬頭明王の符ですわ。書いてある真言の読みはオン・アミリト・ドバンバ・ウン・パツタ・ソワカです。解放の呪はカンです」
次に真ん中の符を指差した。
「これが不動明王の符ですわ」
それを見た木乃香が嬉しそうに言った。
「あ、それ知ってるで!」
「昨日、不動明王の符をこのちゃんとイルゼに見せたんです」
「ほな、不動明王の呪文は覚えられましたか?」
刹那の言葉を聞いて妙は木乃香に聞いた。
「はい!ナウマク・サンマンダ・バザラダン・カン!」
木乃香が唱えると妙は顔に喜色を広げて木乃香を褒めた耐えた。
「素晴らしいですお嬢様!」
褒められた木乃香は嬉しそうにはにかんだ。
「ちなみに不動明王の解放呪文はカーンです。最後の符は降三世明王、真言はオン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ。解放の呪文はウーン
です」
そう言ってから妙は両手の小指と小指、薬指と薬指を合わせ、中指同士を交差させ、人差し指を広げ、親指を中指と薬指の間に差し入れた複雑な印を
結んで木乃香と刹那に見せた。
「これが馬頭明王の印です。やって見てください」
言われて木乃香と刹那は妙の手を見ながら四苦八苦しながら印を結んだ。
「これでええ?」
木乃香と刹那は完成した印を見せると妙は微笑みながら頷いた。
「合ってますえ。次はこれです」
次に妙は右手を広げた状態から指の側面同士を合わせた状態にした。
「これが不動明王の印です」
「あれ?昨日せっちゃんがやってたのとちゃうね」
妙の見せた印に対して木乃香は疑問を投げかけた。
「昨日の印?」
妙が聞くと刹那が答えた。
「うちはこうやって印を結ぶよう言われたんです」
自身なさげに刹那は昨日結んだ印を妙に見せた。
「それは破魔の印ですやね。不動明王印は不動明王の力をある程度操作出来るんです。破魔の印は不動明王に限らず、破魔の方向性を持つ呪文に
破魔としての方向性を示せる。せやから間違いではないんですわ。でも、結界を張るには不動明王本来の印を結ばんと出来まへんから刹那はんもしっ かり覚えてくれなはれ…言うても閉じたジャンケンのパーを手前に持ってくるだけやから破魔の印より寧ろ簡単なんどすがね」
「はい!」
刹那の返事に満足げに頷くと、今度は左手の中指と人差し指を絡ませ、親指と薬指と小指を曲げた状態にした。
「これが降三世明王どすえ」
「これも簡単やね」
木乃香がそう言うと妙も頷いた。
「それでもかなり強固な簡易結界を張れますさかい特に難しい馬頭明王の印はしっかりと復習してくださいな」
それで今日の勉強はお仕舞いだった。
妙に別れを告げてから刹那と木乃香はイルゼを探して回った。
すると、イルゼは自室の畳の上で寝転んでいた。
「イルゼ寝とるね」
「気持ちよさそうや」
木乃香の言葉に刹那が返した。
「うちらもお昼ねしようや」
「うん」
そのまま、木乃香と刹那はイルゼの隣に寝転んだ。
そして、三人は食事の時間になり、麻耶が呼びに来るまでずっと眠っていた。
麻耶が起こしに来た時に目に入ったのは眠っているイルゼの両腕を右腕を木乃香、左腕を刹那が抱き締めながら寝ている様子だった。
「あらあら」
その様子に麻耶は苦笑しながら部屋の中に入った。
「起きてや。お夕飯ですえ」
腰をその場に落として三人の体をゆすりながら起こした。
「んん…うん?」
「んにゅ…」
「ふみゅ…」
目を擦りながら木乃香と刹那はイルゼから手を離して目をパチパチと瞬きした。
「痛ってえ!?なんだこれ!?」
イルゼは両手が痺れてしまったらしく両手をブラブラと振っている。
「あ、おはようイルゼ」
「おはよぉ」
木乃香と刹那は寝惚けながらイルゼに挨拶した。
「ん?あぁ、おはよぉさん!」
「ほな、起きたなら大広間に行きますえ。今日はイルゼの為に長がご馳走手配してくれましたさかい」
妙の言葉に木乃香と刹那が首を傾げた。
「なんかあんの?」
木乃香が聞くとイルゼが口を開いた。
「多分、俺が明日東京に行くからそれでじゃねえか?」
「ええええ?!明日!?聞いてないでうち!!」
「うちもや!なんで言ってくれへんかったんや!」
イルゼの言葉に木乃香と刹那は血相を変えて問い詰めた。
「んな事言ったって。言われたのは寝る直前だし」
「むぅ」
木乃香に頬を膨らませながら睨みつけられイルゼは頬に冷や汗が流れるのを感じた。
「悪かったよ…」
イルゼの謝罪に木乃香は機嫌を戻した。
そんな二人の様子を見ていた妙は苦笑しながら言った。
「ほら、早くいきまへんと、長が待ってますえ」
「はぁい!」
三人はそれぞれ返事をしながら妙と共に大広間に向かった。
「よぉし!誰が一番に着くか競争しようぜ!」
「ええでぇ!よおぉいどんや!」
木乃香の合図にイルゼと木乃香は一気に駆けだし、刹那も追いかけた。
「まってぇな、二人とも!」
「あらあら、あきまへんで三人とも」
両手でメガホンを作り三人を注意するが三人は廊下を走りぬけて行ってしまった。
「まったく…しょうがありまへんな」
苦笑しながら妙も急ぎ足で大広間に向かった。
大広間に一番に着いたのはイルゼだった。
「負けてもうたぁ」
木乃香は肩で息をしながら唇を尖らせた。
「へへぇ、俺に勝つには修行が足りまへんでえ」
調子に乗って木乃香達の関西弁を真似ているイルゼは聞こえてきた声の方を振り向いた。
「まってぇなぁ」
角を曲がって刹那が全速力でかけてきた。
「わ!?馬鹿!止まれ!!」
「ふえ?」
刹那はイルゼの声に気が付き顔を上げるとバランスを崩してしまった。
そしてツルツルの床面に脚を滑らせ木乃香にぶつかりそうになった。
「やべえ!?」
咄嗟に木乃香の前にイルゼが立ったが勢いがついた刹那の体を支えきれずに木乃香も巻き込んで大広間の障子を破って中に飛び込んでしまった。
「うわあぁあぁあ!」
障子の瓦礫と共に入ってきたイルゼ達に大広間に居た者達は皆目を丸くしながら驚いた。
「だ、大丈夫ですかお嬢様!?」
すぐ近くに居た妙が木乃香を助け起こした。
「痛ちち…」
イルゼは起き上がると刹那に手を貸して起き上がらせた。
「ありがとうイルゼ」
「いいよ。怪我ないか?」
「うちは大丈夫や」
「木乃香はどうだ?」
「うちも平気やえ」
「三人とも、廊下を走ったらあきまへんで!!」
妙の怒鳴り声に三人とも涙目になりながら謝った。
「ごめんなさぁい」
すると、詠春が苦笑しながら近づいてきた。
「ほらほら、三人とも座りなさい」
「はぁい!」
三人は詠春の近くにそれぞれ座った。
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