第8話『一時のお別れ』


三人の前に膳の上の漆器の器に色とりどりの料理が踊っている。

波型の器には朱塗りの御椀が乗り、その上には串に刺さった海老や花の蕾のような形の紅の寿司。

八寸には新物イクラの自家製漬けに山芋、雲丹と汲み上げ湯葉、子持ち鮎、鯖鮨、栗の焼いたん、甘藷の銀杏型。

新物イクラは淡い風味が印象着け、子持ち鮎は咀嚼する度にジューシーさのある秀逸的逸品に仕上げられ、雲丹と汲み上げ湯葉の相性の良さにも舌
鼓を打つ。

鯖鮨の締め加減が酸味を抑えた静かな旨味がじっくりと舌に響く味わい。

木乃香は椀物の汁に入っている銀杏豆腐と鱧を箸で、一口ずつ口に持っていく。

鱧と梅肉の深い香りに食指を動かし、口に含むと、甘味と塩味の合わさった味わいが広がる。

刹那は楕円型の皿には透き通るような美しい白身魚が乗っており、一枚を醤油に漬け口に含む。

次の一枚はポン酢を漬け、次の一枚には山葵醤油を漬ける。

それぞれのタレが全く違う味を出す。

イルゼは小蕪と雲丹、湯葉あんかけの炊いたんを豪快に口に含む。

味と言う概念を知ったのはこの世界に来たばかりだというのにイルゼにとって食事と言うのは今までに無い幸福を与えてくれる。

柔らかい小蕪は、甘くとても瑞々しい。

小蕪の中には雲丹が入っている。

この雲丹が一層の甘味を付与していて、幸福感をいっそう高める。

上品とは言えない食事の仕方だが、この世界に来たばかりの頃から箸の使い方を覚えたイルゼの食事の仕方はまさにヒトのソレであった。


「ふぅ、木乃香、刹那君」


銀杏を織り交ぜたコシヒカリを食べ終わり、御椀を置いた詠春は木乃香と刹那に口を開いた。

木乃香と刹那も箸を膳に置き、詠春に顔を向けた。


「ああ、食事は続けていいよ」


微笑を浮かべながら詠春が言うが、刹那も木乃香も到底食事を続けることが出来なかった。


「明日、イルゼには東京に行ってもらいます」

「…」


詠春の言葉に木乃香と刹那は黙ったままだった。


「既に聞いていたようだね」


詠春は瞑想するように目を瞑りながら続けた。


「イルゼに一般的な常識と格闘技の習得の為に東京に麻耶と共に行ってもらうことになったのだよ」

「帰って…帰ってくるんよね?」


木乃香は搾り出すように言った。

イルゼに言われてから胸の内に秘めていた言葉だった。

イルゼが来たのは突然だった。

故に、いつかどこかに去って行ってしまうのではないかと思っていたのだ。


「勿論、一年。いや、これから九ヶ月の間は東京の道場に行ってもらう」

「九ヵ月後…」


九ヶ月、その言葉に木乃香と刹那は理解した。


「このちゃんが麻帆良に行く日って事ですね」


刹那の言葉に詠春は小さく頷く。


「でもよぉ」


そこで今まで黙って膳に乗った水菓子を租借していたイルゼが口を開いた。


「武術ってのはそんな短期間で覚えられるような簡単なもんじゃねえんだろ?」


イルゼの質問は尤もであり、詠春も予期していた。


「正確には麻帆良に木乃香と一緒に行った後は麻帆良で修行を続けてもらおうと考えているんだ」

「はぁ?なら最初っからその麻帆良ってとこで修行すりゃあいいんじゃねえか?」


イルゼの言葉に木乃香と刹那も同意し詠春を見た。


「うん。本当なら同じ所で修行を続けたほうがいいと思う。でもね、イルゼ。君には世界を知って欲しいんだ」

「世界を?」

「そう、麻帆良に最初っから行くとね、魔法使いってのは秘め事を好むんだ。だから、デジモンからヒトになった君を外に出したいとは考えないと思うんだ」

「でもよぉ、麻帆良って詠春の親父が治めてんじゃなかったのか?」

「うん。お義父さんには君の事を伝えて在るし、向こうに行ったら便箋を図ってもらえるようにして在るよ。でもね、お父さんも魔法使いなんだ。魔法使いは
この世界に居たいんだ。本当ならね、魔法使いは魔法世界の中だけに居るべきで普通の人には魔法使いなんて存在は童話や神話の中だけの空想の
産物で在るべきなんだよ」

「詠春。お前…それじゃあ自分の存在意義否定してねえか?」

「確かにね。私自身、こんな事を言ってもこの世界に住んで居る。この世界に根を降ろして普通の人と交わっている。だから言えた義理じゃない。でも
ね、魔法使いはこの世界への執着心がとても強い。そして、この世界にいるには魔法をバラしてはいけない、魔法以外の異端を無くさないといけないん
だ。自分で管理できない物はあっちゃいけない。魔法を使う人を増やしちゃいけない。管理できない力は身を滅ぼすかもしれない。普通の人が魔法を使
えるようになれば自分達だけのアドバンテージが消えてしまう」

「それって…なんかヤダな…」

「うん。でも、これは仕方ないんだ。魔法使いも普通の人も異端の人だって。…みんな、ヒトなんだ。力は自分達だけで独占したいし、怖いものにはフタを
したい。君の存在はね、怖いんだ。僕達魔法使いにとって異端なんだよ」

「詠春も…俺が怖いのか?」


イルゼは不安に駆られて聞くと、詠春は微笑みながら首を振った。


「僕は怖くない。それはね、僕が君を一人の息子として愛しているからなんだ」

「愛?」

「そう。ヒトはね、嫌いにもなる。だけど愛する事も出来るんだ。愛しているから怖いなんて感情も無くなる。ヒトの気持ちを知る事はこの世界で生きて行く
にはとても大切な事なんだ」

「そっか…。詠春」

「なんだい?」

「俺も、俺も愛してるぜ。詠春も、木乃香も、それに刹那やマヤ姉ちゃん、妙姉ちゃんの事も。ようはさ、大切な存在って事だろ?俺にとってのジジモン
や、ババモン。ヴァンデモンやアグモン達みたいに。それならわかるさ。俺は少なくとも俺に優しくしてくれたみんなの事は大切に思ってる。東京ってとこで
磨くよ」

「それは?」

「自分を」

「うん」

「うちもやえ」

「うちもや」


イルゼの言葉に木乃香と刹那も嬉しそうに微笑みながら言った。


「うちもイルゼの事愛してる」

「うちもや」


その様子にその部屋に居た物が不安に思うのではと詠春が部屋を見渡すと。部屋に居る人間は皆、子供達を温かい目で見ていた。

心の底から悪い者など居ない。

詠春の言葉を聞いて俯いた者も多かった。

それ故に、偏見を無くした目で見たイルゼの様子に皆は毒気を抜かれたのだ。


「イルゼ、東京で一足先に頑張っててや」

「うちは埼玉の麻帆良学園に行くんはきっとずっと後になると思う。でもな、絶対立派になって二人に会いに行く!やから!イルゼも頑張って」

「ああ、二人も頑張れよ。俺も絶対誰にも負けないくらい強くなって見せる」


いつの間にか、膳の上のご馳走は空になっていた。

着物の上に前掛けをした女性達が膳の上の器を全て下げ、代わりにそれぞれの膳に玉露と羊羹を置いた。

イルゼは一口にソレを口に入れ、お茶を一気に飲み込んだ。


「よぉし!頑張るぞ!!」


それを見た木乃香と刹那も自分の羊羹と玉露を一気に飲み干し叫んだ。


「おぉぉ!」

「おぉぉ!」


右腕を思いっきり天に上げて三人は笑い合った。

その晩、三人は詠春の部屋で布団を敷いた。

詠春の布団の隣に一つだけ。

枕を並べて川の字を作る三人の少年少女達と共に、詠春は目を閉じる。



翌日、麻耶は本山の前にNISSANのBLUEBIRD SYLPHYを横付けにし、白いブラウスに紺のカーディガンを着て、紺色のロングスカートを履いた姿で門
の前で別れを惜しんでいるイルゼ達の様子を見ていた。

三人とも目には涙を溢れさせ、お互いに抱き合いながら別れの言葉を口にしている。

イルゼの格好はクマの絵がプリントされた肩口の紺色の白いシャツにベージュの長ズボンを履いた姿だった。

最初に来ていた服はイルゼのエネルギーで構成されていたらしく、二日目に洗濯している間にエネルギーが無くなったのか、いつの間にか霧散してい
た。


「じゃあ、行って来るな」

「うん」

「イルゼ…気ぃつけてな」


最後にもう一度言葉を交わしてからイルゼは麻耶のもとに駆け寄った。


「もうええの?」

「うん。これ以上やってると…別れられなくなっちまうから…」

「そっか」


それだけ言うと、麻耶は後部座席のドアを開いてイルゼを乗らせ、自身も運転席に乗り込んだ。

ドアのノブのすぐ下に在る操作レバーで後部座席の窓を開く。

そこからイルゼは顔をだして手を振った。

麻耶はブレーキを踏み込み、鏡の位置や座席の位置を確かめてキーを回す。

タイヤが動き出すと木乃香と刹那が車に駆け寄った。


「イルゼ、さいなら!!」

「イルゼ、待っててや!!絶対うちも頑張って立派になるから!!」

「ああ、木乃香、刹那!!九ヵ月後に会おうな!!」


手を抜けんばかりに振り続ける二人と、微笑みながら片腕を上げる詠春の姿が見えなくなってもしばらくイルゼは窓から体を乗り出して手を振り続けた。

それから車は東京へ向かって走る。





















九ヵ月後…

イルゼは京都の本山に帰って来た。




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